NODA・MAP「逆鱗」を見てきた。

野田地図NODA・MAP第20回公演『逆鱗』
シアターBRAVA!
By野田秀樹
2016年3月26日13:00〜

キンダイシュラン《★★★★☆》


ものすごく久しぶりに、ここに書きます。金田一央紀です。
はてなダイアリーの使い方を忘れてしまっていて、ちょっと読みにくいかもしれませんが、「逆鱗」感想を書きます。
いつも通りネタバレもしますから、気を付けて。人魚がこの芝居にとってどういうものだったのかとか、そういう話しますから。
いやぁ、勉強になりました。ほんとうに、そればかり。
野田さんの芝居で★4つ。以下にいろいろ書いていきますね。とっ散らかっていくでしょうから

僕の妄想あらすじからはじめます。


野田さんの芝居を見るときには必ずと言っていいほど、どんな話かなとあらかじめ想像していくことがいつからか習慣になっていました。
「おれならこのタイトルでどんな話を書くだろうか?」と考えていくわけです。
どうやらアンデルセンの人魚姫の話(王子に恋をして、声を無くす代わりに足をもらって、気づいてもらえず、水の泡になって消える話)。
小川未明の赤い蝋燭と人魚の話(爺さん婆さんに拾われた人魚の子供が大きくなって家の中で赤い絵の具でロウソクに絵を描いて儲かるも、爺さん婆さんに裏切られて見世物小屋に売り飛ばされて、その恨みのために、人魚の描いたロウソクが災いになることで、村ごとなくなってしまう話)。
「逆鱗」というからには、龍の逆鱗の話も出てくるだろう。
野田さんは長崎にどうやら思い入れがありそうだから、あの有明海あたりの海にまつわる話をするかな。とすれば諫早湾のギロチンの話かな。
逆鱗に触れたことで怒りを食うっていうことで、海の怒りはつまりは津波かな。三陸沖の話になるかな。
今回も裁判が行われるかな。マスコミ批判もあるかな。時事ネタもちょっとはあるだろうけど、最近の多すぎてわかんないな。
人魚と言えば、その肉を食うことで不老不死になるというから、その話はきっと出るだろう。それも、人魚と王子が恋をして、人魚を最終的に食べちゃう話かな。「喰え、そして生きろ」みたいな、『赤鬼』みたいな話かな。

などいろいろ。

全然違った。

全然違った。もう、そのあらすじの逆をやってた。
なんなら、「逆」っていうのがモチーフの一つだった。

具体的、ということについて。

野田さんの脚本は、多分、最初読んでも全然わからない。
けど、実際に舞台にしてみると、分かることがたくさんある。
それはなぜかというと、野田さんのコトバが具体的すぎるからだ。
具体的すぎるから、「これは比喩かな?」と思う。抽象的な話をしてると、なんかとりとめのない話になってしまうが、具体的な話をすればわかりやすくなる。
なのだけど、だいたいの日本人はそれを比喩だと思ってしまう。
たとえば、「首を長くして待つ」だったら、待ちすぎて首が長くなってしまった人が出てくるのが、野田秀樹の演劇世界だ。
(という、こういう表現も比喩なので、実際にそういうことをしていたかどうかはわからないし、くだらなすぎてやらないと思う。)


なので、『逆鱗』に、逆鱗は出てくるし、人魚も出てくるし、水族館はちょっと舞台装置的なこともあって抽象化されてたけど、胴から下しかない魚が出てきたりする。
もっと言えば、
海底から水面に上っていく水の泡ではなくて、逆に、水面から海底に落ちていく鉛のような泡や
水底に沈んだものたちの魂が、具体的に、海底でゆらりゆらりと漂うようにしている。
なんなら、海の底で聞こえてきた戦争を終わらせる声も、シャボン玉の形で空から降ってくる。
ちなみに、玉音放送がシャボン玉で降ってきたとき、僕は「うわっ、やられたっ!」と思いました。

ト書きに書かれたことは、何が何でもやろうとする。そのイメージを具体的に見せる。
もう、ことばだけかと思っていた「塩の柱」だって、照明で出してきたときにはもう、なんというか、そこまで徹底して具体的なものを求める力に、手を合わせました。

演劇は、具体的なモノだ。
覚えとけよ、と言われているような気になりました。


回転人魚の話

途中で、人魚とはいったい何だったのか、という話になるのだけど、
そこで英字の電報のアナグラムでもろもろわかってくるのだけど、声には出さないけど、アンサンブルの文字たち「NINGYO EAT A GEKIRIN」が、ふと、後半ほとんどのモチーフになる言葉になった瞬間、もう、なんか、「よく見つけました。そうです、その通りです。誰も文句言えない」ってなりました。
アナグラムは野田さんの大好きな遊びだし、やり始めたときは「まだやってんのか」とも思いましたが、だれが見つけたものでもないアナグラムを野田さんが見つけたというのは、もう、なんつうか、石油を掘り当てたよりもうれしい何かがあります。
ふと、そのとき、「回転人魚」という芝居を遊眠社の頃やってたなと思いだしたのです。
終演後、遊眠社時代からずっと音響をやっている近藤さんに伺うと、「あれは、全然違う話だよ」とのこと。どんな話だったんだろう。

さむっ、ふゆっ、しぬっ

池田成志さんの面白さが止まりませんでした。

ことばあそびとセリフ


野田さんのセリフは、説得力のある、笑えないことば遊びに彩られています。
たぶんこういうのを、オヤジギャグだとか、そういう人もいるだろうけれど、オヤジギャグはその瞬間だけ面白いけれど、野田さんのコトバ遊びは違う。
今回のヒットは「ヒマにマヒする」だと思います。
時間があまり余ってしまって、そこから抜け出せない人を的確に示したコトバとして、心に刺さる。
この類のセリフを真剣に言うから面白い。
かつてのように、ことば遊びが理由で世界が変わってしまうようなことはなくなりましたが、
それでも、ことば遊びが野田さんの劇世界の土壌を耕していることは確かです。
ことば遊びをするように、状況をすり替えてみたり、現在過去未来をぐちゃぐちゃにしても整合性のとれているようにみせてしまったりする。

多くの声を背負った人物


多くの芝居がそうであるように、気づけば主人公と言われている人が、その他大勢の、ひいては作家の叫びを代弁することがある。
「逆鱗」もそういう意味で、最後舞台に残った二人の長台詞にこの芝居の大事だったものが凝縮されている。

そこでふと思う。演劇はどうやっても、一人の人間を描かないといけないんだろうか、と。
ひとりの人間の成長を通じてドラマが巻き起こるようにしないといけないんだろうか、と。

群像劇というものがあるけれど、やっぱり最後は一人残ってしまうことが多いように思う。
12人の怒れる男たち」のようなものだって、結局「これは最終的にはあの父親の話だもんな」となってしまう。

僕たちは、その話がいったい誰の話なのかについて多くを語りたがる。
「これは阿部サダヲのはなしだろう」とか「あの、ほら、あのおばあちゃんの話じゃないの?銀粉蝶さん」とか、なるだろう。
もちろん、「いや、松さんだろ」「瑛太君の話だ」とケンカになったり、「わかってないな、あのアンサンブル、モブとしての、つまり周辺の我々の生き方の話だったんだよ」といろいろ出てくるだろう。
結局、だれか一人に焦点を当てて、そこから見た劇世界を語りたがる。
「あの人にとってはこういうことが大事だったんだ」とまるで自分のように語りたがる。

これ、もうちょっと複眼的に見ることはできないのかなあと、あるいは、作る側としては複眼的に作ることは可能なんだろうかと思わせてくれた。

もうしめます。


終演後、以上のようなことを考えながら、野田さんに挨拶をしてまいりました。
思ったことの1%も言えなかったけれど、野田さんは受け入れてくれました。
うれしかったです。
NODA・MAP制作スタッフの皆さんも明るい笑顔で迎えてくださいましたし、
久しぶりに出会うスタッフの皆さんも、覚えてくださってて、感激しました。

がんばろう。いい芝居作ろう。本当に、まじで。
そう思えました。