鴻上尚史のイギリスでトランスするの巻。

Trance

by 鴻上尚史
at Bush Theatre
£7

キンダイシュラン<★★★☆☆>


ガーディアン紙のレビューもあります。↓
http://arts.guardian.co.uk/theatre/drama/reviews/story/0,,2099871,00.html
英語ですが、まあまあの評価です。

彼自身のブログもあります。


もともとトランスという芝居は、
サークルの友人がサークル内で試演したものと
京大の劇団が吉田寮食堂でやっているのを見たっきりで、
なんだか、学生のやる芝居というイメージしかありませんでした。
なので、この芝居を考えるとき、自分もいつかやるかもしれない、っていう、
そういう視点で、今回は書きます。
あと、海外で演劇をするということについても、
ちょっと触れたいと思います。


なのでいつもよりボリュームがでかいです。
ちょっと怖いのですが。誰が見てるかわからないからなあ。

海外で芝居をするということ

さてさて
日本で有名な劇作家・演出家による、
自分の本の翻訳したものを
自分で演出する、という鴻上尚史の試みは
ホントにがんばってはるなあ、という印象でした。
が、
そういう涙なみだの裏話が通じるのは日本人相手だけで、
もともと多国籍で英語が通じないことが日常茶飯事のイギリスで、
そういうことを言っても始まらないわけです。


とにかくも、実際に芝居をしているのを見て、
鴻上尚史という人は
野田秀樹の後を追っているわけではないんだ。
というのがなんとなくわかりました。
比べられることは一番本人たちが嫌がることなのかもしれないけれど、
なにしろ、この二人は、何かと
80年代の小劇場ブームを引っ張った、とか
イギリスに留学した、英語に苦労した、とか
渡英後プロデュース集団にスタイルを改めた、とか
実際に英語で自作の脚本を演出する、とか
妙に共通点が多いので、自然と比べちゃいました。
なんというか、はじめてイギリスに来るとき、
どうしても夏目漱石のことを思って、
「自分も一年いたら神経衰弱になって帰国するんだろうか」
とかいう、無用の妄想を抱えてしまうのに似てます。
で、そういう夏目漱石とドイツに行って愛人作った森鴎外
比べてしまうのに似ている気がします。


演劇を海外でやる人たちにとって、
蜷川幸雄野田秀樹鴻上尚史という三人は
何かしらのモデルになること間違いないです。
もちろん他にもこれまで何人もの演劇関係者がロンドンへ渡り、
そこで実力をつけて帰国して、日本の演劇に影響を与えているのですが、
やはり、この三人のメディア受けというか、ブーム作りのうまさというか、
いつまでも最先端にいようとする姿は、
ちょっと他にはないものがあると思います。


後続の演劇を目指す人々に海外への道を
きっちりと示しているこの三人の姿は、
まるでアメリカのメジャーリーグへ行った人たちのようです。
さしづめ、今回の鴻上尚史の挑戦はメッツに行った新庄のようでした。


で、鴻上尚史野田秀樹のあとを追っていないというのは、
その公演の規模からもいえると思います。
かたやYoung Vic。かたやBush Theatre。
かたやガラス瓶の天井。かたやアクリルの透明パネル。
鴻上尚史のトランスはNHKの教育テレビで放送されるのかなあ?
役者の質は同じくらいでした。


なんていうか、すっごい微妙なちがいなんだけど、違うんです。
この場で言葉にできないのがすごくもどかしいです。


ただね、これだけは声(文字)を大にしていいたいのだけど、
海外で芝居するのは夢物語じゃありません。


アフロ13はついこないだ、台湾で芝居を地元の劇団と合作して終えたばかりだし、
ロンドンのノッティングヒルのGATE THEATREでは日本の能に影響を受けた中国人の脚本によるイギリス人による芝居「NAKAMITSU」が行われてます。
友人はドイツの劇場でスタッフとして駆けずり回っているし、
アメリカやイギリスの大学の演劇学校には必ずといっていいほど日本人がいます。
そういうのをすっ飛ばして、やれ「英語は大変だ」とかいうのは、
どうも壁を作る以外のなにもしていないように思います。
残念なのはそういう英語のできる人が日本で頭角を現せないでいる状況なんじゃないでしょうか。
どうも日本人の根底に、帰国子女コンプレックスが眠っているような気がします。

で、トランスの話。

ブッシュシアターはロンドンの西、
シェパーズブッシュにあります。
東京の地理で言うと中野あたりに相当する場所にある劇場で、
劇場の前には三角形の広い公園が広がっています。
気持ちのいい場所です。
一階にはパブがあり、二階が劇場。
エントランスは狭くて、あれにくだりの階段があったら、
タイニイ・アリスみたいな感じです。


劇場も狭いけれどきっちりと箱の舞台。
キャパは100人以下。
舞台は二面舞台をを囲うL字の客席で構成されてます。
今日の観客は7割日本人3割現地の人でした。
僕も7割の中の一人なので、ちょっと久しぶりに錯覚しました。
「ここ、イギリスだよね…」と。


舞台装置は壁に沿ったアクリルのパネルに、白い箱が4つ。
薄い水色のブルーの照明が、真っ白な舞台を染め上げていました。


これを読んでいる人のうち、一体どれだけの人が
鴻上尚史のトランスを知っているのかわからないけれど、
鴻上尚史といえば、スナフキンかトランスあとリレイヤーなので(あと、朝日のような夕日とか??)
その代表作のトランスをやるっていうのは、
なんというか、ちょうどいい舞台設定なんじゃないかと思いました。
3人だし、舞台も狭いし、予算もそんなにかからないだろうし。
もちろん、トランスは紀伊国屋劇場でもやるくらいで、
規模の大きい場所でもきちんとできる作品だから、
劇場の規模はあまり関係ないのかもしれないけれど、


すっごく高田馬場にいる気分でした。


話の内容はもう、面倒なので詳しくは書かないけれど、
この話は、
パーソナリティは自分の心の中でどんどんと変わっていくけど、
アイデンティティは、人間一人一人の関係に見出すもんなんだ!
っていうことなのかなあと思いました。
この物語の中で、天皇っていうのが出てくるんだけど、
絶対的な存在として思われていた「天皇」というものが自らの意思で、
「誰でもないのと同時に、誰でもある」っていう存在になることを望んだ時点で、
絶対的な存在なるものを否定するっていうことで。
つまりは、自分探しとかして、
「自分はこれしかないっす!」と思い込むよりも、
「あれもできる、これもできる、もっともっとしたいー!」っていう、
ブルーハーツな心を持ってこそ、
人間ていうのはかわいいし、愛せるし、
「私の愛する人は精神を病んでいます」
って言えるんじゃないかなあ
なんて思いました。

イギリスで演劇を勉強することのデメリットとメリット

役者さんはとてもよかったと思います。
でもどこかぎこちなさがあったりするのは、
やっぱりイギリスで演劇を勉強したことの反作用なんかなあと思いました。
ビールを飲むマイムとかがすごくいい加減。
でもその代わり会話のリズムがすごくスムーズなのね。
リーディングがうまいのと、ムーヴメントがうまいのは、
どうも違うようです。
そこがきっちりと演劇の勉強した人の弊害なんじゃないかなあ。
なんせ、コースで分かれてるから。他のコースとの応用がどうも利かないというか、
科目を超えたものを作るのはどうも難しいのかもしれません。


まあ、日本でも、「歌って踊れて芝居もできる役者」は少ないけど、
イギリスも「喋れて動けて芝居ができる役者」は少ないのかもしれません。


でもでも、ホントそういうのをひっくり返すような瞬間が
今回のトランスにはちらっと出てきたりするので、
まるでガラスの破片の中からダイヤモンドを探すみたいでした。


マサトが天皇になる瞬間なんてものすごくうまくて、
思わず唸ってしまいました。


ただね、
たとえば、明かりにちゃんと入れないのって、どうなんだろう。
独白や何かのシーンの時に、スポットライトに入るんだけど、
おでこのあたりに光のエッジがくるようにして立つのは、
あれは演出なんかなあ。
でもこういう、明かりに入らない役者っていうのは、
他のイギリスの芝居を見るとよくあることです。
こういうのが気になるのは、僕がよく
「明かり落ちするな!(暗いところに立つな!)」
といわれながら芝居をしていたからかもしれません。


なんか、サークルにいたときのだめ出しみたいですいません。


これはもうちょっと気になったんだけど、
その、スポットからホンのちょっとずれた場所で、
「マサが天皇になって2週間経った」とかのナレーションを
レイコがやるんだけど、
もう、直前のシーンを引っ張りすぎて、涙目なの。
あまりに役に入り込みすぎて、見ていてかわいそうでした。
トランスのレイコって、あんなに弱い人間だったか?
と思うほど、すぐに泣いてました。
でも、きっと稽古段階で、演出しながら、
「うん、そうやってもいいよ」って、
鴻上さんが言ったのかなあ…。
好きなシーンの一つに、レイコが好きだった人への仕返しで、
その人に向かって啖呵切って殴るっていうシーンがあって、
そこで一気にレイコにスイッチが入って、めちゃくちゃいいシーンになるんだけど、
このスイッチの入り具合がすごくグラデーションがかかっていて、
じわ〜っとくる芝居になってました。
ガツッ!とくるのかな?と思っていたので、面白かったです。
ただ、これがもし、
それまで一切涙声にならないで踏ん張ってこのシーンまで来てたら、
ものっすごいたまりに溜まったうっぷんが破裂して、
「誰よりも好きだったのに!」っていう叫びに
もっとパンチが効いたんじゃないかと想像しちゃいました。


あと、鴻上さん自身のブログでも触れていたけれど、
トランスの最後の最後に出てくる、有名な群読があるんですけど、
どうしてああいう風にしたのか、
たぶん、イギリス流なるものがあって、変わったのだろうけど、
あのシーンをイギリスで演出するということだけで、
鴻上さんはエッセイの連載4週くらい使うんじゃないかと思います。
なので、どう変更されたのかは、あまり言わないことにします。

ま、そういうわけで、まとめ。


なんだか、今回のトランスの話だけをするべきなのに、
これまでのトランスと比べてしまったのは申し訳ないですが、
作品が作品だけに、こうなってしまいました。
今日はじめてトランスを見る友達と一緒にいったのですが、
彼は芝居のあと、「何であーなったんですかね?」の連続でした。
ちょっと、鴻上作品を初めて見た時の自分を思い出しました。


惜しいなあと思うところやら、うまいなあと思うところ
よくがんばったなあというちょっと上から見た態度で、
星三つです。


長くなりました。


いま、イギリスの役者に
どうすれば明かりおちしないことの良さを伝えられるか
を考えてます。
「フォロースポットは君たちを追っかけてくれるけど、
スポットライトは追っかけてくれないんだ!」
かな???
「観客にいい姿を見せるのに、ちゃんと明かりに入ったほうがいいだろう?」かなあ。。。
うーん。。。