理想の演劇のかたち。

やりたいことと、
やれることのあいだには、差があって、
その差、というか、ギャップというようなものは、
自分がきちんとやりたいことを説明した「実現できる技術を持った人」に委ねることで埋めていくしかないんだけど、
演劇ってそういう差がものすごくいろんなところにあるもんだから、
一体誰の作品なのかよくわからなくなるものだと思います。

でもだからこそ、総合芸術だって言えるんだろうし、
お客様のものですとも言えるし、
「ここまでこの劇団が続いたのも自分たちのおかげです」とも言える。
通りすがりの名もないお客さんが、大感激して握手してきたりもする。
まったくもって予測不可能な未来が作り出される装置として、演劇空間は成り立っているような気がします。


毎回泣けるような芝居なんてないし、
違う観客、違う天気、違う日々を、違うコンディションの俳優が繰り返し行う芝居っていうものは、
どうやっても、「今まさにそこにあるもの」として存在するしかなくて、
その、「今まさにここに感じているもの」に出会う瞬間はもう、めったにないわけです。
でも、作り手としては、常にはじめてやってくるお客さんに
「今まさにそこにあるもの」っていうものを見せて、
お客さんもそれを見ることで、
「今まさにここで感じているもの」をガツンと感じるわけです。


こんなの、大量生産できるわけがないし、
複製を作ったところで生の雰囲気を味わえるわけじゃないです。


でも、僕が作りたい芝居っていうのは、
この、「今まさにそこにあるもの」としての芝居であって、
「今、ここでしか味わえない感じ」を劇場全体で体感できるようなものなんです。


で、そういうアバウトな話をしたところで、
一体、物語はどんなで、
俳優は何人で、
演出は誰で、
劇場はドコで、
チケットはいくらで、
とかそういうものはまったく出てこないんです。


だって、

脚本ができないと俳優はやらないけれど、
俳優がいないといい脚本はできないです。
演出だって俳優と劇場のことを考えてやらないといけないし、
俳優と劇場は演出が誰かによって決まるんです。
いい劇場には客が必要だけど、
客は劇場がよくないと来ないんです。
こういう、すべてが同時に決まるような公演でないと、たぶん、いい芝居は生まれないと思います。


劇場が決まった、スタッフなどの演出が決まった、俳優が決まった、
脚本が決まった、観客がやってきた、
こういうものは全部、ドミノ倒しではなく、同時に発生するものなんじゃないかと、
ちょっと思います。


でも、現実には、時間ってやつはそんなに幅のあるものじゃないから、
「じゃあ、まず、劇場押さえましょう」とか
「あの人の脚本でやりましょう」とか
「あの役者すごくいいんだよ、やりたいね!」とか
仕方なくドミノ倒しにしていかないといけない。


理想の芝居って、
恋人同士が同時に電話をかけてしまうような、
そういう瞬間に生まれるんじゃないかなあ。
でも残念なことに、同時にお互いに電話をすると、
話し中になっちゃって、電話には出れないのだけど。