演劇は人生を変えるか?

KindaichiOhki2007-08-28



演劇の話をするとき、だいたい
「どうして演劇の世界に入ったんですか?」ということになる。
僕の場合はその場その場でいろいろ話すようにしているのは、しっかりとした理由がないからで、しかもその一つ一つが大事な瞬間だったりするからだ。
小学校1年生の時にみた人肉食の芝居
中学校2年の秋に演じた「マイ・フェア・レディ
高校2年の夏に演劇部に起こったいろいろなこと
高校3年生の夏にいろいろやった辛夷
大学生のころごたごたしながらもやったサークル
サークルと平行していろいろやったこと
大学を卒業してからも参加した芝居。
イギリスでカーテンコール後の30分間泣き続けたこと

実は、そのすべてが芝居を続ける理由になっているけれど、
演劇の世界に入った理由にはなっていない。
気づいたら舞台に立っていた、というのが本当のところだ。


以前見たドラマの「下北サンデーズ」でもなんでも、だいたい主役が芝居を生で見て、その熱気と汗とに圧倒されて演劇の世界に入る。
でも今の時代、そうやって芝居の世界に入るのは意外と難しい。熱気・汗・青春のキーワードを掲げる劇団が少ないからじゃない。というより、そういうところは今でもしっかりと残っている。
でも実際のところは、サークルで誘われて入ってみたり、授業でたまたま芝居に熱い先生のクラスで無理矢理クラス演劇させられたり、英語の授業でスキットを作ってみて意外と受けたり、友達とやっていたごっこ遊びが止められなかったり、好きな俳優さんに近づきたかったり、タダ酒が飲めるからって行ってみた飲み会がなにやら芝居の関係だったり、友達の付き合いでオーディションに行ってみたら自分が受かって友達落ちたり、何やらきっかけというものは枚挙にいとまがない。


僕は何の疑問も持たないまま、芝居は楽しいものだと思ってきているけど、そう思わない人だってもちろんいる。
なんか芸能界っていうのはドロドロした狭い場所で、噂と幽霊とお金があたりを充満していて、くっついたりはなれたりを延々繰り返している、とても閉鎖的な世界だと思われてもいるだろう。
もちろんそういう世界はどこにだってある。
学会と名のつくものはだいたいそうだし、一人の人間を慕って集まる集団だってそうだし、村を作ろうと思ってしまうのもそうしたどこか保守的な考えがあってのことだと思う。
狭い世界がいろいろとひしめいてぶつかり合って、そこに境界線を引いて、時に境界線を飛び越えてみては余計に境界線を際立たせてしまったりする。

もともといた世界があって、演劇の世界に入ったというなら、
そのもともといた世界って、どんだけ偉いものなんだと思う。
機械工学ばかりやっていた人がロシア語の翻訳家になったり、画家の勉強をしていた人間が一国の元首になったり、世界なんてまったく関係なしに人の人生というものは出来上がっていく。


歌ありダンスありのエンターテイメントとか、「もともとエンターテイメントって歌だって踊りだってあっただろう」と思う。
芝居をやれば汗をかくし、間違える可能性が存分にあるから緊張感だって出る。目の前で必死になって動いている人間がいて、動かされない人がいますかね。
道端でただただ座り込んでいる人を見ただけでも、人は緊張するのに、目の前で何か主張のある人間を目の前にして、ドキドキしない人がいるでしょうか。人の話を聞いて、自分の人生を変えない人がいるでしょうか。馬だって耳元で念仏唱えられたら多少はうっとおしがるんじゃないかと思うんです。


僕は演劇をやっていて、すごく恐ろしい気分になります。
演劇の世界に人が入っていく責任を負わねばならないとか、そういう話ではなくて、演劇でも何でも、人と関わることで、人を巻き込むことで、人の根本的な部分を揺さぶってしまうからです。
役者という人間を前にして、その人間が芝居というものを知らなければ知らないほど、僕はその人間に「演劇とはこういうものだ」というある種の偏見に近いものを植えつけることになってしまう。
さらに言えば、その偏見によって、相手の人生をもしかしたらとんでもないモノにしてしまうかもしれない。僕はそれがひどく恐ろしく感じます。
そしてなにより、今、自分自身が揺れているのに、「これが芝居だ」もなにもないくせに、大見得を切ってハッタリかましている自分の姿がとても醜く感じるのです。


演劇の世界に入ったりやめたりする理由は数あるけれど、
僕の知り合った人たちの理由に、「金田一」という存在がどれだけあるのだろうと考えただけで、ものすごく嬉しかったり嫌だったりします。


演劇は社会を動かそうと思えば動かしてしまえる力を持っているだろうと思います。
演劇は人生をがらっと変える力があるとも思います。
けれど人生変えちゃうような演劇作ってしまってどうするの?と思います。
それでも僕らは芝居を作り続けます。
ナンセンスな芝居だって、人生変えちゃうこともあるでしょう。
そういう芝居を伴侶として一生とげちゃう人だっているでしょう。
人は人、その人の人生なんか知ったこっちゃないと思うかもしれませんが、
僕らの作る芝居が誰かの人生に深く残るようなことをしたら、
作り手は何かしらの責任みたいなものを負わないといけないような気がします。


たとえば、それは、恋をした相手のようなものだと思います。