演劇と空間について

友達からふと出てきた質問が演劇の空間の話だったので
面白い質問だと思ったので、さっそくできるだけの回答をしました。
で、ここにも書いちゃいます。



まず、演劇と空間の話だけれども。
よく言うのが、
「誰かが何もない空間を横切って、それを誰かが見れば演劇は成立する」っていうやつで、これはピーターブルックがきった啖呵なんだけども、まあだいたい当たっていて。
空間よりも役者の肉体と観客の想像力でもって演劇を成り立たそうっていう話です。
で、何もない空間ってやつは、この二つの人間を取り持つ場所としての空間で、極端な話にしてしまえば、何かある空間は無駄なんだと、そういう話になっちゃう。

でもどうも空間をおざなりにしているといけないんじゃないか?っていう疑問はよくあって、市街へ出て、町特有の雰囲気がないと成り立たないような演劇だってある。劇場ではなくて、わざわざ廃墟でやる芝居もあるし、テントを変なところに張ってやる人たちもいる。イギリスの劇場はほとんどがビクトリア朝の内装で、豪華絢爛なもんだからってんで、嫌う人が多いのね。「芝居のイメージと劇場のイメージが全然違う!」とかいってね。
だので、いまではブラックボックスと呼ばれるような、何もないただの箱で壁が黒くて客席も舞台も好きなように作り変えられるような、フレキシブルな劇場空間が求められていたりします。
こういう風潮になったのはたぶん、内装に金をかけらんないっていう、経済的な要素もあったりすると思うんだけどね。


で、西洋の演劇の空間って、舞台空間と観客席に分かれると思うんだけど、で、その間には深い溝のようなものがあって、これを第4の壁(4th Wall)と呼ぶんだけど、この第四の壁を超えることはどうもタブーだと思われていたのね。
 そこをピーターブルックや同時代の前衛演劇の連中は、まずは観客席から出てきてみたり、舞台を取り払って客と同じ高さにしてみたり、客席をなくしてしまったり、してみたわけです。でもその原点はギリシャ時代の劇場にあったりして、これこそ演劇におけるルネサンスだと思うんだけども、それはそれでまだちょっと勉強不足であんまりいえないんだけど。
 日本の演劇の場合、芝居はゴザ敷いて畑や河原でやってた遊びからから始まったから特に仕切りのようなものはなかったんだけども、能の舞台はなんだか神様が絡んでいるようで、神楽殿のような場所でやるようになっちゃった。神楽殿はもともと柵のある建物だったし、たぶんそのまま舞台とそれを見る場所っていうのは自然と分かれていったんじゃないかなあと僕は勝手に思っています。足利の将軍様や大名お抱えになって、高尚なものになってしまって、高尚なものほど高いところへいくもんだから、舞台もどんどん遠くて高いところへきちゃった。そこへ河原で踊ってた阿国さんの踊りが流行って、歌舞伎ができて、これはもうファンと役者の話だからより近くでたくさんの人間が見たいってんで、舞台に上がったものの、さわりたい、よく見たいってんで、花道ができちゃった。
 今でもストリートのジャグリングやってるときはいつの間にかお客さんと、ジャグラーの動く範囲でもって自然と舞台のような空間ができているもんね。ダンスをクラブで踊るときも、ついついうまい人のダンスは一歩下がってみちゃう。そのうちに見ている人が適当に距離を置いて真ん中にダンサーがいる空間をいつの間にか作っちゃう。
 これはちょっと不思議だなあと思うのだけど、たぶん、僕ら人間の中に、「役者を邪魔しちゃいけない」っていう暗黙の了解ができているからなのかもしれない。あるいは、「あたしたちが邪魔したら今見ている最高の演技は崩れちゃう」っていう風な気持ちが空間を作っているのかもしれないね。
 ただ、これが見世物になるとちょっとちがくて、お客は「みたいし、さわりたい!」っていう欲求のほうが強いから、一斉に第4の壁を突き破っていこうとしちゃう。ロックのライブとか、プロレスの入場シーンとか、見世物小屋のニシキヘビとか。でもそれをやることで舞台と観客席全体が盛り上がるから不思議です。誰も触りに行こうとしないプロレスの入場シーンはなんかしらけた感じになっちゃうよね。
 歌舞伎っていうのはそういう見世物の空気をちゃんと持った、邪魔しちゃいけない演劇形態の唯一の姿なんだろうなあと思います。大衆演劇なんていうのも、お札の首飾りをかけた銀之丞とかいうような名前の役者さんが出てきて、お客さんからおひねり投げてもらったりしてて、おもしろいんだけどね。


ちょっと話がそれちゃったけども、そういうわけで、演劇の空間っていうんはとても大事で、演劇をやる人間からすれば必ず頭においておかないといけない要素の一つなわけです。芝居を盛り上げるために、お客を退屈させないために、ちゃんと考えないといけない。言葉も役者の肉体も大事だけど、それを生かすための場としての空間はとても大事なわけです。


さて。
演劇を一つの絵画のようにして楽しむ場合、絵画と同じように構図が大事になってきて、たとえば額縁といわれるプロセニアムアーチがあったり、真ん中に大きな階段があったりするんだけど、なにしろ注意深くなるのは、舞台のどこにどんな人間がいるか?っていうところで、ここら辺は蜷川幸雄の芝居を見ると一目瞭然なんだけど、主に縦軸を中心とした線対称の図が喜ばれます。あと、役者が常に一定の距離を持って動き続けるっていうのも大事で、これは舞台の動きをダイナミックにします。よくあるのはチャンバラのシーンで、一人が動いたらそいつに向かう敵もちゃんとバランスをとりつつ間合いをとりつつ動く、というような。


言葉と空間で言えば、「これ」「あれ」っていうものも、空間のトリックでもっていかようにでも変化します。というのも、うまく空間を捉えていれば2メートル離れているところにあっても、「これを受け取ってくれ」というような台詞が言えたりします。そこは役者同士の空間を認識するバランス感覚がないとうまくできないのだけど、へたくそな役者はまったくこれができないです。まるで、ボールに全員がすぐ集まる小学生のサッカーを見ているような感じになります。

ただこういう空間の使い方はテクニックであって、理論としてはあんまりうまいこと説明できないので、僕としてはもうちょっと深く知りたいなあと思うところでもあって。
広場の大階段に人が散らばって座っていたりすると、「ああ、これが芝居で使えたら」と思ったりします。芝居でやろうと思ったら限られた人数をできるだけうまく配置して、まるで散らばっているように見せないといけないわけだから。たとえば、5人でローマの大観衆、なんていうのをやんなきゃいけない。これはもう、「そういう風に見えるようになるまで配置をいろいろ試行錯誤する」ことでしか出てこないわけです。少なくとも僕くらいの経験ではまず難しいです。でも、きっとお客の想像力でもって、5人が1000人に見えるときが来るに違いないと思って、役者の肉体を鍛えて、台詞を工夫して、空間を作り出すっていうのが、演劇の限界でもあり原点でもあるわけです。


面白いでしょう?


そんなわけで、演劇での空間は、観客が踏み込んではいけないなあと思いながらも知らず知らずに作り上げているし、さらにその中に踏み込んでしまっている、っていう、なんだかよくわからない空間なワケです。演劇に観客が必要だといわれているのは、つまり役者だけではどうにも空間が作り出せないから、っていうことなのかもしれない。


舞台美術っていうのは時にスカスカに感じることがあると思うのだけど、スカスカであったほうが役者はそこで生き生きと動くことができたりするわけです。舞台に役者がのってはじめて芝居は動き出すし、観客はそれを見て、わくわくしたりするわけです。濃密な美術にしてしまうと役者が全然見えなくなっちゃう。いわば紅白の小林幸子になっちゃうわけで、「さっちゃんどこにいるの??」ってなっちゃう。見た目ですごいことはすごいけど、役者は誰でもいいんじゃないの?ってなっちゃう。「オペラ座の怪人」は成功した数少ないいい例ですが、これもハードウェアが生き残ったおかげで、役者の魅力のようなものはちょっとなおざりにされているような気がしてならないです。


なんていうか、収納棚に似たようなもんかなあ。
ものがないとつまらないっていう。
「額ぶちはいいけど絵がまずいねえ」なんて言われた日にゃもう、だめだもんね。
あとキッチンかな。やっぱり人が使って活きるんだよね。
もちろんそこで料理する人は使い勝手がいいのにこしたことはないけど、
そこで働いている姿がかっこよく見えるようなキッチンって、素敵でしょう。


使う人と見る人がいてはじめて、ただの場所が活きた空間になるんだよねえ。