劇団が長続きする方法。


友達の劇団が解散するっていうので、ちょっと考えた。


劇団ていう集団生活をするに当たって衝突や分裂はあるんだろうけれど、やっぱり解散ていうのは悲しいわけです。


 一人、あるいは数人の才能のもとに何人かが集まって、はじめは劇団として熱い議論などをしたり、友達付き合いの延長で過ごしていたり、「いいもん作ろうって!」っていう気持ちでやっていたんだと思うんですよ。
 でもその中で核になる人がいて、それが大体、脚本家だったり演出家だったり、看板俳優だったりするんだけども。
 そういう人がだんだんとのさばり始めると、劇団はうまく行くかだめに行くかの二択ルートをたどり始める。
 もちろん、いったんこのルートに乗ったからといっても、軌道修正はできるので、話を簡単にしてはいけないのだけども、とにかくも、のさばる人間が出てくると、どうも劇団にとってはいいことが起こらない。
 ただ、のさばった人間が結果的にすげえ人だったりすると、効果は「ダメ」から「イイ」に一気に逆転する。唐十郎だったりつかこうへいだったり浅利慶太だったりがいい例だと思う。ただこの場合、圧倒的なカリスマ性を持っていないとだめで、この巨星が没したときのことを考えるととてもいてもたってもいられない。劇団という組織からすれば時限爆弾を抱えているようなものだ。
 結果的に一人がのさばるといいことはないのかもしれない。



劇団にとって「イイ」こととは何か?
ちょっと今の常識っぽく思われているようなことを書いてみましょうか。
 まずはそこに動く人間と芝居を打つ場所があることだ。人間と場所がいればちゃんと組織として外身はできる。中身はどうあれ。
 そして、お客さんがコンスタントに一定の数入ってくれることだ。観客が芝居をみれば、演劇は成立する。この際芝居の質などは関係ない。とにかくもお客さんが入ってくれれば、次の公演が打てる。お金が入るからだ。スポンサーを持てば、とにもかくにも劇団として続く。
 次に大事なのは劇団の名前が知れ渡ることだ。知られ方はともかく、名前が売れれば潜在的な観客動員数が増える。「とりあえず、ミュージカル見たければ劇団四季なんでしょう?」というような短絡的なイメージも、四季が大成功した一つで。そのおかげで劇団四季は長続きしている。内部のいろいろなドロドロとかはもちろんどこの劇団にもあるものであって、それがさらに売名につながっているならば、それもそれでありだろう。
 で、これが長続きすれば、たぶんいいことだろう。この際、長続きしないほうがいいのか?という議論はあとで回すことにして、とりあえずは長続きすることはいいことだと、大前提を持っていきましょう。


ただちょっとこの単純な観客増殖ループもなんだか怪しい匂いもする。
客が来る

名が知れる

客が増える

もっと名が知れる
というようなループに行くと、天井知らずで芝居の質の上昇なんかはこの際まったく関係ない。純粋な資本主義の意識でやっているとこうなる。「増えることはいいことだ」という意識がこの増殖ループを生み出していく。


で、芝居の質を上げることを目指し始める。
 芝居の質を上げることを考えるとどうしても誰かがその基準を作っていかないといけない。この、「質」の良し悪しっていうのはどうも曖昧で、人によって違うので、そこで誰か一人か二人の人間の基準(だいたいにおいて演出家あるいは看板役者の美意識)を集団の美意識にすりかえてしまう。で、その少数の人間(だいたいにおいてはえぬきの人間、あるいはひいきの人間)がのさばる。独裁が大事になってくる。そうなると組織としては硬直し始める。


かといって「みんなのための、みんなによる、みんなのしばい」
となると、どうもこれは劇団中心になってしまって、客が来なくなりそうな気もする。「でも、それでもいいじゃないか。」と思える人間が観客としてやってくる。いわゆる、身内の人間が客になる劇団が出来上がる。
 それはたとえば、日本人の芝居を海外に住んでいる日本人が見に行くとかいうのも、身内だ。イチローの試合を見に行く日本人だってきっと身内意識がどこかにあると思う。ファンクラブの人間だって、身内だ。
宝塚歌劇団やジャニーズのライブはその成功した典型例だ。


人間にとって長く生きるには「新陳代謝」がどうも大事なようだ。
ちゃんと食べて、ちゃんと出す、というのが大事。
 劇団で言えば、新しい劇団員(主宰も含め)、新しい観客、新しい芝居をつねにアップデートし続けて(数は増えても減ってもいい)、古い人間が常に去るシステムがちょうどいい。決して芝居を作り続けることが、古い人間が去ることと同じではないことを知っておかないと、ここでは痛い目にあう。ずっと同じ演出でレ・ミゼラブルをやり続けていても演じる人間と観客がちがえば、とにもかくにもレ・ミゼは長続きするのだ。
 とてもむずかしいのは、ここで、劇団員を切るという決断だ。どんだけ才能のある、華を持った役者でも去らないと劇団のためにはならない、という立場をとるなら、これはもう苦しい。けれど結局これでうまく劇団が続いているのが、現在の大学内の演劇サークルだ。
 創立から50年を超えている劇団は大学サークルのほうが多いのではないだろうか。その中には早稲田の劇研があったりするが、そのシステムはつねに新陳代謝をするもので、成功した劇団は劇研を離れ、独立する。劇研は空いたスペースにあたらしい人間を招きいれ、新しいユニットと呼ばれる劇団を作る。この繰り返しがあって、劇研はそれなりに評価をえるサークルになった。
 大事なのは、劇研に新人を鍛える教育機関があったということだ。そこで叩き込まれるのは劇研の美意識であって、そこの人間の美意識ではない。知らず知らずのうちに世代を超えて受け継がれた理想のようなもの、美意識のようなものを、叩き込む。きっと劇研のかつて所属していた劇団に共通するある一定の美意識を徹底的に叩き込まれた人間が、世代ごとに少しずつ変えたり表現を変えたりしながらも下の世代に伝えていく。この新陳代謝と教育のシステムがあって、劇団は長続きする。大きな劇団が一定の養成期間を持っているのはそのためだ。


教育機関があって、主宰を含めて新陳代謝を絶えず行う劇団。そうすれば、劇団は長続きする。
ただ、そこにお客さんが来るのか、という現実問題がやってくる。演出も脚本も役者も代表も毎回違うような不安定に見える集団にお客は来るだろうか?
それが、来る。観客もそのシステムを了解していれば、来る。
学生のサークルの客の大方は芝居ではなく、「学生」あるいは「友達」を見に来る。
野球のファンは選手というよりも、ひいきチームを見に行っている。(もちろんひいきの選手はいるだろうが、いつかきっといなくなるという無常をきちんと認識している)


劇団が長続きするモデルは、野球チームにあるかもしれない。けれど決定的に違うのは、劇団の数が限られていないことだ。この決定的な違いが、劇団の存続をさらに危ういものにしている。劇団の数はどんどんと増え、人々はひいきの劇団を探すことに疲弊して、すでに名の知れている劇団へと流れる。新感線しか見ない人、野田秀樹しか見ない人、劇団四季しか見たことのない人、などが増える。
ありがたいことに、最近新感線やNODA・MAPはプロデュース性を高めていて、新しい才能をもった役者を方々から使うようにしているおかげで、さまざまなジャンルへの入り口になっていることもある。


だんだん見えてきたろうか。
劇団の理念が、劇団の名前になっていく。名前が知れ渡れば、劇団は長続きする。
一人の人間がのさばったからといって、劇団の終わりかどうかではない、と、冒頭の話をひっくり返してしまおう。のさばったら、きってしまえばいい。ただ、きるかどうかを判断するのが人間であってはいけない。判断するものは、劇団の理念によってだ。あるいは理想とよばれるものだ。ただ、この理念をがちがちにしてしまっては、息苦しくてたまらない。いわば、国の憲法のようなものをつくればいい。「戦争はしません」というような。「変えたければ変えるがいい」というような。


こういう、理念をもって、かつそれを実行できる人間がいて、その人間が常に変わっていって、風通しのいい劇団、
一体いくつあるだろう?また、こんな劇団がほんとに長続きするだろうか?