DEREVOを見てきた。

Ketzal
by DEREVO
at KOMEDIA Brighton


キンダイシュラン<★★☆☆☆>


サウスハンプトンでDEREVOの公演を見た同居人は「見に行かないほうがいい、お金の無駄だから」とずっと言っていたのだけど、それは何かの間違いだろうと僕は思っていて、実際今回行って見たら結構よかったので、やっぱりサラの見た回はとんでもなくひどいものだったんだと思って、ちょっと同居人かわいそうに思った。
★二つだけど、それはブライトンというロンドンからちょっと遠いところで見に行きにくいというのと、この日一日しかやらないという寂しさもあって、限りなく三つに近い、二つです。

DEREVO(デレーヴォ)はロシアの前衛ダンス集団で、その身体のキレや視覚的な美しさでイギリスではいい評価を受けています。今回のダンスは日本の舞踏に影響を受けた感じが強くて、僕にとってはよく見るスタイルのダンスでした。たぶん、テーマとかはロシアやキリスト教のものなんだろうけれど、そういうのはいまいち分からないので、ただただダンスとしてみていました。なんというか、テーマなるものや主題のようなものは見て感じるものであって、記号を理解してえるものではないと思うから。

シロウト的な姿勢

ちょっと話はズレますが、たとえば全く異なる文化のものがやってきたとき、それを受け止める時に働かせるべきものは、無知の状態(’素人’の状態)で’知ろうと’する、シロウト的(ダジャレ)な姿勢だと思うんです。わかんないものでも、とりあえず分かろうとして、自分の思い出を引き出して当てはめてみる、見方だと思うんです。もちろん、そうするとどうしても偏った見方になってしまうかもしれないけれど、それはどこの人間だってそういうものだと思います。
もし、「偏見なくみましょう」っていう、「ありのままを受け止めましょう」という人がいるとすれば、それはよっぽどの人だと思います。どうしたって自分の持っている思い出を引き出さずにはいられないのが、人間てやつなんだと思います。だからこそ、民族の意識とか、肌の色の違いで生理的な隔たりを感じるんだと思うんです。
違うかなあ。


人間は異なるものを拒絶するものだ、といっているのでは決してなくて、まずは受け止めるけれど、その受け止め方が人の思い出というものによって少しずつ違うっていうことです。ものっすごい早いボールをグローブでちゃんと取れる人もいれば、ゆっくりの山なりのボールを取れないでこぼしてしまう人だっているということです。また、受け止めた時に「ズバンッ」といい音を鳴らすひともいれば、同じ球でも全然鳴る音が違う人だっているわけです。


でさらに言うと、そういうボールの受け取り方やグローブにはまったときの音とかをどうのこうのいうよりも、どうしてボールが飛んできたのかについて考えたほうが面白いと、思うんです。飛んできた方向はわかるけれど、どうやって飛んできたのか、なんで飛んできたのか、なぜ飛んでくることができたのか、そこを考えないといけないんじゃないかと思うんです。
「そりゃ投げたからだ」というかもしれないけれど、じゃあ、なんで投げることができたんだと、僕は問うてるワケです。
「なんで他の誰でもない’僕’に向けて、なにものでもないこの’ボール’を、転がすでもなく弾ませるでもなく届けるでもなく、’投げる’ことができたんだ?」と。
投げるのが仕事だから、という答えは答えになっていないです、きっと。
そういう風に訓練されたからだ、というのは、ちょっとかすってるかなあ。

本格的に本題からズレたので、ここら辺で修正。

そう、DEREVO。
これ見るんだったら、ライオンキングと大駱駝鑑をみたほうがマシです。
別に見なくてもいいと思います。
イギリスにいるんなら、ライオンキングとロイヤルバレエの若い人らでやっているダンスを見たほうがマシです。


ブライトンはすごくいい町です。
気に入ってます。海が近いし、ご飯はおいしそうだし。町の作りもかわいいし。
若いうちにお金持ちになったら、住みたいなあ。