できないこと、と、やれないこと

最近いろいろありまして。
ふと思ったのが、やれなかったこと、と、できなかったこと の違いについて。


「できない」の反対には、「できる」しかないのだけど、
「やれない」の反対には「やれる」と「やる」があって、
似ているようでぜんぜんちがう「やらない」というものあったりする。

いろいろとあるけれど、そのなかでも「やる」ものと「やれる」ものがあって、
それらを「やらない」か、「やる」か、まず決めて、
「やる」と決めたものに取り掛かって、「やれる」か「やれない」かが見えてくる。
「やらない」と決めたものは別に後悔も無いのだから、やれるかどうかは意味が無くなる。

たとえば、10億円の一軒家、土地付きを買いませんか?といわれても、お金が無いので、買わない。買う気すら起きない。そういうのはもう眼中に無い。こういうのを「やらない」のジャンルに入れておきましょう。買えるかどうかの次元ではなく、要るか要らないかの話だ。要らないので、買わない。


さて、「やる」と決めたものは、いきなり「やるべきもの」に変換されてしまう。
「やる」と決めたとたん、時間制限が加わって、やれるかどうかを見極めよ、という問題がでてくる。
「やれない」と決めるまで幾分かの時間を要するけれど、
絶対的に無理だということを発見すると、すんなりと「やれない」と決めることができる。
「やれない」と決めたとたん、今まで取り組んできたものは「やらない」ものになって、すっきりする。


「やれない」と見極めるまでの間が、とても苦痛だ。
やってもやっても何の解決も見出せないとき、ここで「できない」がでてくる。


しかも、「できるかできないか」を考え出すと、「やるべきもの」は「やらねばならないもの」に変化していて、気付けば「やる」ことが当然になってしまって、
もともとのやったあとにやることを見失ってしまう。

ホントはカレーを食べないといけないのに、にんじんが嫌いで食べられなくて、カレーが食べられなくなってしまうようなことだ。にんじんさえ食べられたらカレーが食べることができるのに、といって悩む。ここでにんじんをよけることができればいいのだけど、にんじん嫌いを克服しようとして無理矢理にんじんを食べようとする。ここで、「できるできない」の問題が出てきて、大変に悩む。どうやっても、「できない」からだ。


できないのにやり続けるのはどこかに「できるはず」という希望があるからだ。
「ここまでやった以上あとにはもう引けない」という体面よりも、
「できるはず」という希望こそがよけいに「絶対に無理」という事実を考えないようにしてしまう。
結果、「できない」まま、悩み続ける。どうしてできないのだろう、と悩み続ける。


「できない」という言葉にはどこか悔しさが見え隠れする。
「やれない」という言葉にはどちらかというと潔さがあるのに。

この悔しさは、きっと「できる」「できない」という他に言い逃れができないことに由来するのではないか?
もっと、「できる」という単語を使って、「やれないでもない」とか「やれそうだがやめておく」とか可能かどうかではない次元に飛べる意味を作り出せればいいのだけど、それはできない。
まるでトロッコに乗って二叉路にぶち当たった時のどうしようもない不安と混乱が、「できる」か「できない」かには潜んでいる。
これはどっちにいったところで結果的に悔しい。
なにかあらがえない大きなものに無理矢理決められてしまったような気分になる。


この悔しさを味わいたくないがために、
締め切りを延ばしたり、引きこもって何もしない生活を送ったりするのかもしれない。
ただ、時間は無情にも過ぎていく。
僕らはトロッコから降りることはできないのだ、それは死ぬことだから。


やればできる、とよく言うけれど、
それは、やればできるかどうかが試されるからだ。
やらないと、できるかできないかはわからない。
やってできないものは、できないのだから、やれませんと言っていいのだと思う。


でもね、
「できない」と知ってから「やれない」と見極めるまでの間にどれだけの労力を費やしたかによって、どうやら人は評価を与えるように思う。
それはちょっと酷だけれど、人が成長するためにはこの労力が必要だからかもしれない。


成長するって、とってもへこむ。