台風の目としての野田秀樹。

The Diver
by Hideki Noda and Colin Teevan
@Soho Theatre

19th June till 19th July 2008

キンダイシュラン《★★★★☆》


いろいろ考えていたのだけど、
The Diverという作品について考えてるうちに、
野田秀樹のすごさというものをようやく分かったような気がしました。
もしかしたら分かりきっていることなのかもしれないけれど、
こうやって僕自身、ようやく実感を伴って納得できたので、
この作品ほど刺激的なものはないです。
やっぱり今までの作品は僕にとってはただ見て楽しむだけのものだったのに対し、
真剣に演劇の作品と、その作者と、公演とを考えさせるものでした。


以下、その今のところの僕の考える野田秀樹です。


野田の作品は、タネをまくことしかできない。

それを芽吹かせるかどうかは、
見た人間たちがその後何をするかによる。
すっかり忘れて相変わらずマルコポーロの描いたZipangや、
侍と芸者の世界を追いかけてしまうかもしれない。
あるいはむしろ、日本を知ろうとしてより現在の姿をみようとするかもしれない。
大半の人間は分からなかったからと言って捨てておくことを選ぶかもしれない。
けれど残りの1割の人間たちが自分たちの誤解と不理解に気付いくことができれば、それは成功だ。


けれど、野田の作品は無理矢理気付かせるようなことはしない。
ただそこで演じられて、「こういうのもありますよ」というだけだ。
けれど、彼の見せるものは、西洋の人たちが見たいと思っている日本ではまったくないという点で、
他の国際的な演劇フェスティバルにくるような日本の作品とは違う。


イードの論じたオリエンタリズムはいまだに存在する。
そのオリエンタリズムの届かない場所から、野田秀樹はロンドンの客席へ作品を送り出す。
観客たちはきっとそこで未知のものとふれあい、語り合うだろう。
あれは一体なんだったのかと。そこにタネはまかれたのだ。


「海人」の部分が全体を通じて意味が分からなかったと書いたガーディアン紙のBillingtonの正直な感想は、
それだけで他の観客との会話を巻き起こすだろう。
そこで野田が何かを言おうとすれば、それは可能性の話だけだ。
「海人は母と子の話だし、心理学にも深層心理へダイブするとも言うだろう、そこできっとつながっているはずだ」と。
だが決してそのシーンの持つ意味や解釈と言うものについては話さない。
いや、話せないのかもしれない。


野田の話せないものについて、観客は「あれはなんだったのか?」と彼に聞くだろう。
野田はそこをうまくはぐらかして話を摩り替える。
それは政治的な意味合いに関しても「そんなものはない」ときっぱりといい放つ。


議論を巻き起こすのは観客であって、表現者はただ作品を作るに徹する。
野田の文化交流という点に関しても、野田はただ作品を作るだけだ。
そして作った先から自分はそこで演じているにもかかわらず、
気持ちは次に作る作品へと向かっている。


まるで、台風の吹き荒れるその中心は穏やかに晴れ上がっているように、
野田の作品はただ、そこに静かにあるのだ。
そして野田秀樹という人間もまた、多くの人を巻き込みながらも、
静かにしかし、しっかりと次の方向へと進んでいくのだ。


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このことに気付いたおかげで、僕は一つオトナになったというか、
自分の作る作品はそのまま自分の気持ちであると勘違いして、
それが観客へ届かないことを恐れていたことが、少しだけバカバカしく思えた。
どこの段階まで伝われば、僕は満足できていたのだろう。
「あれは、ああなるから良いんですよね!?」と言ってくれる人ばかりを望んでいた自分を恥じた。
「あそこは一体どういう意味なんですか?」と聞いてくる人に対して、
その作品のうちで語りつくせなかったことをさも自慢げに話していた自分を未熟だと感じた。


いや、でも僕は忘れてはいけないことがある。
演出家として稽古場に立つとき、脚本や原作のことを語らねばならない。
俳優たちと一緒になって、からだを動かしていかねばならない。
そこはテクニックで乗り越えられるものもあるけれど、
思想の上にやっと動き出す身体もあることを忘れてはならないと思う。


表現者と観客との間には、こんなにも大きな溝がある。
すぐれた表現者はそれを見せることに精一杯になりながらも、それから何かを伝えようとはしていないのではないか。
観客がそれを見てやっと、何かを伝えようとしていると勘違いして、それを読みとろうとしている。
もしかしたら、不可抗力的に読み取らざるをえないように人間はできているのかもしれない。
そこに人々の間に会話が生まれる。


「昨日のとんねるず見た?」と。



いったいどれだけの表現者がこういうこと考えているんだろう。
気付けば、野田さんは昔から、無国籍だとか、左翼じゃない右翼でもないとか、
そういうところがあったなあと。なるほどそういうカラクリか!とふとおもうのでした。