Turandot見てきた

Turandot
ベルトルト・ブレヒト
@Hampstead Theatre

キンダイシュラン《★★☆☆☆》



毎回毎回、なんでブレヒトの二幕明けはすごく眠いんだろう。
ブレヒトの芝居を見る時はいつも睡眠不足で行くのは、
もしかしたら運命的なものがあるのかもしれない。
万全の状態で見たためしがないです。

というか、もしかしたらブレヒトの作品というか、
異化を意識した演技というものがどうもつまらないように思えてしまうのは、いったいなんなんでしょう。
あと、ちょっと説教臭い会話とか。
もうちょい素直に行動していけばいいのに、話しちゃうキャラクターたち。

もうこの際、中国の話だとかそういうのは確かにあるんだけど、
中国じゃない中国を舞台にしたそれっぽい舞台っていう感じで見てました。

見てると役者がどうも幼いというか、つたないというか、そういう風に演技するもんなのかな、ブレヒトの芝居っていうものは、などと考えていたんですけど、
日本の翻訳ものっていうのは、もしかしたら無意識のうちに「異化」をしてますよね。
ちょっと思ったんだけど、日本の翻訳劇っていうもので扱われるリアリズムっていうのは、
もしかしたらヨーロッパでブレヒトが、またその後継者たちが必死になって求めてきた演技かもしれないと、ふと思いました。
「演技しているということをわからせる演技」と、よく「異化」の説明でなされると思うんですけど、
もうすでに日本人がカツラかぶって鼻を高くするメイキャップして、大げさにティーカップを口に運んでみたり、足を組んでみたりするのは、またっくもってリアリズムでもなんでもなくて、
ステレオタイプから割り出した動きと、実際の人間の行為の緻密な観察のなしえる「いないんだけど、いそう」っていう演技を繰り出していくのは、
つまり異化ってことなんじゃないかなと、今日思いました。
日本人がブレヒトを好きかどうかはわかりませんけど、
誇張と単純化において長けた日本人の感性には、ブレヒトは演技する段に関しては近いものがあるように思います。


ただそれを、北のほうからやってきた写実主義的なリアリズムをほぼ骨格としている西洋の俳優ができるかというと、結構難しい話なのかもしれません。
ブレヒトがキャバレーを好んだのも、誇張する演技のできる人たちがそこにはたくさんいたからでしょう。
なにしろ、日本人からしても、ヨーロッパの人たちのボディランゲージの大きさはすでに大きいわけで、それ以上誇張しようとしても無理なところまでいってるのかもしれません。
ピエロなどの例外に思うかもしれませんけど、ピエロの演技はそれはそれで実はとても写実的な演技をしているように思います。ただ、ありえないような失敗を続けてするっていうところで特異なんであって。
ブレヒトの求めていた演技の姿っていうものは、
もう生で彼の演出したものを見ることはできないからわからないのだけど、
きっとそれは日本の劇場でよく見る演技に近いものがあるんじゃないかと思います。

西洋の俳優がやると、どうも手を抜いているようにしか見えなくなっちゃうんは、
ちょっと損だなあと思ったりします。


生意気なことを言ってますが。