キースジャレットとノッてきた演奏。

Keith Jarrett Solo
@ Royal Festival Hall


キンダイシュラン《★★★★★》



キースジャレットの演奏を聴いてきた。
一緒に行った友達もかなり喜んでた。

休憩が終わったあとのキースの乗りようったらなかった。
休憩前の最後の曲でちょっとエンジンかかったかと思ったけど、
休憩後、「What this world demands on images」と写真禁止の注意を直接おっしゃって、
そっからすぐに演奏に入っていったキース。


休憩前、前半の三曲目が終わって、四曲目のイントロの部分ですぐにやめて、
咳があまりに多いのを注意しました。
「Everybody, let's caugh together, one...two,..trhee」とかいって。
咳はattenntionの問題なんだといってました。まったくです。集中して聞いてたら、咳の数もぐっと減るだろうにと思います。
実際、休憩後、ぐっと減って客席もあったまって、キースの演奏にちゃんと耳を傾けていたように思います。


キースジャレットの曲には大まかに2種類あって、
ひとつはメロディを繰り返してそれを分解していく、基本的なジャズの形式。
もうひとつは不協和音の中に、いま自分が一番出したい音を探っていく形式。
前者の場合はとても聞きやすくていいのだけど、
後者の演奏はちょっと硬い感じがして入りにくいけれど、その音が見つかった瞬間の美しさは他の演奏とは比べ物にならないくらいの感動が待っていて、その音が出た瞬間、曲が終わりに向かってぐっと加速していく感じがたまらなく気持ちいいです。


基本的なジャズ形式(といっていいのかわかんないけど)の場合、
そのフレーズそのものに美しさがあるから、それを繰り返していれば、それなりに音楽にはなる。
で、そこをキースジャレットは、というかジャズマンたちは、
その美しさを、あるいは気持ちよさを、なるべく長く聞いていたいという欲求と、
その彼らの頭の中で流れている音楽をできるだけしゃべりたいという欲求が重なって、
(もちろん、彼らは楽器を弾かない限りは音は聞こえてこない)
常に現在形の音が、つまり音のプレゼンスの濃密なものを、作り上げてしまう。


キースジャレットの触れる鍵盤の一音一音が、そのたびにガンガンと心を揺さぶりにかかってきた。
すごかった。


しかも、それはキースジャレットはいつでもできるわけではなくて、
ノルとすごくなる、というしろもの。
ノッテいないときのキースの演奏はどこか探りを入れていて、サービスも過剰で、
ある種、「俺はこれでやるぜ、ついて来いよ」的な雰囲気が大半なのだけど、
ノッてくると知らず知らずのうちにキースもエンジンがかかって、
観客も「おっけい、それだよそれなんだよね」と、つい語尾に「ね」をつけてしまうくらいの自然さで、キースの演奏に乗っかっていく。


グルーヴって言うのは、つまりこういうことなんだなって、思いました。


アンコールの二曲目にやってくれた
over the rainbow
今まで聞いた中でも、ダントツによかった。
何がいいって、始まりから終わりまで、
僕らが知っているOver The Rainbowを裏切っていくにもかかわらず、
その裏切りがものすごく絶妙に納得できる、という形で、
それが顕著になったのが、終わり方。
ここで終わるだろうと思ったところで続きまくる。
けれど、「あれ、終わってほしいよ、もう」と思うよりも前に、
「キース、これはどうやって終わるんだい?その終わり方を聞かせてくれよ」っていう、
もう心も体も全部丸投げ状態。
終わるか、終わらないかのところで、じれったくも終わらない演奏に
「そうだろう、そこで終わったらいかんよね、ちがうよね」と共感してしまい、
しまいには
「ああ、今ここで聞いている音楽と、キースの頭の中で流れている音楽には差がない」と感じたのでした。


普通、音楽を演奏するときには、多少なりとも先の音符なりなんなりを予測しておくものなんだけど、
キースジャレットはそうじゃなかった。
さっき音のプレゼンスって言ったけれど、
まさに「いま」彼の頭の中で鳴っている音が、
「いま」彼の鍵盤に触れた指の鳴らした音とまったく同時に発生する感じでした。
そういう意味で、現在と存在が一緒くたになった「"現-在"としてのプレゼンス」を彼の演奏に感じることができたのは、本当に収穫でした。


すごくよかった。


キースジャレットのCDをちょっと買いに行こうと思います。