日本語はなくなるか?

「日本語の亡びるとき」という本が、どうやら話題らしい。


とかいうと、まるで内田樹のブログばかり読んでいるように見られてしまうかもしれないが、
まったくもってそのとおり。


内田のブログを見て、余計にほしくなったので、親にいって送ってもらうことにしました。
内田のブログはここ→http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php
内田は内田で、じぶんのフランス思想研究家という肩書きとフランス語教師という、一面(二面か)を覗かせて、ちょっと打ちひしがれているようでした。
その姿を見て僕もちょっと打ちひしがれてみたんですが、
内田さんの想像がさらに膨らむと、とんでもないことになるぞという気が起こったり起きなかったり。


内田はどういってるかというと、

つまり、英米文学を日本語で学ばなくなった連中は、英語でイギリスなりアメリカなりに言って、勉強する、ということになって、
さらにそこで勉強したことを翻訳もしないまま、日本で教えたりすることになる。
翻訳をすることに一切のメリットを感じないような状況というのは、つまり、
知りたい人たちはすでに英語が堪能。というわけです。

まあ、これですなわち日本語が英語になるかといえば、ちょっとせっかちな話かもしれないけれど、
たとえば、演劇の話で言うと、
"To be or not to be”を日本語でどういう意味か、とこれまで明治からずっとよくよく考えてきたわけです。
が、それも要らないってことになる。
だって、「Be」の意味がわかるんだから。
それは、日本語で言うと、「生きる」「である」「いる」「することになる」いろいろあるわけで、それの一緒くたに詰まったものが、英語の「be」なわけです。

ここでおそろしいのは、つまり、シェイクスピアハムレットを考えたときに、
みんな英語で考えている。
日本語の「生きる」と「存在する」のあいだの違いなんかどうでもいいことになる。

これはどういうことかというと、
「生きる」とか「いる」という意味がわからなくなるっていうことで、
怖いのはつまり、ここなんです。
日本語という言語は、辞書や古文書を開けばたくさん載っているので、
それ自体は消えることはないわけですが(図書館を燃やさないでください)
それを読んで、美しいと思う感性が、なくなるということになる。

どういうことかというと、
駄洒落を出されたときに、わかんなくなる。

ということです。


こないだメリーポピンズを見たんだけど、
その中でジョークを連発するシーンがあるのだけど、まったく笑えなかった。
"I met a man who lost left leg named Smith!"

    • I wonder what name is the other leg?

なんですけど。。
笑えないでしょう?でもこれが笑えるまでに、論理的な説明を受けてるあいだに笑いの爆弾は時間切れになってしまうわけです。
ジョークを説明するほど愚かなことはないですが、
その言語を持たないということは、その愚かなことを何度も何度も繰り返さないといけないということです。


日本語の美しさというものは、
たとえば擬音語・擬態語をすぐに作るそのしなやかさにあると思います。
そしてそれがなんとなく通じる、というのが、日本語だと思うんですけど、
そのなんとなく具合を、説明しないと通じない言葉になってしまう、
というのが、日本語の亡びるときなわけです。


日本語は変わるし、コトバの形も語彙も変化していくけれど、
それでも、日本語はどこの言語圏にも属していないという点において、
一番翻訳しやすい言葉だと思います。
世界の言語とぜんぜん違う、ということは、
つまり世界の言語と分けへだてなく付き合える、ということです。


ロシア文学を片手にフランス思想にはまって、英語のロックを聞いていながら、
子供に三国志西遊記を読ませて、インド旅行に憧れた、なんていうのができるのは、
日本語の特異性にかかわってきてるんじゃないかと、ぼくは思います。


日本語はなくならない、というのはちょっと楽観的過ぎる気がします。
亡びるっていうのも、ちょっと悲観的過ぎると思うけれど。
とりあえずいまのままをナントカ持続させる、という努力を、しないといけないわけです。



やっぱりぼくは、日本語で芝居を書きたいと思うわけです。