『杉本文楽 木偶坊入情 曽根崎心中 付観音廻り』 を見てきた。

大変に長い文章です。
が、僕の文楽に対する考え方も書いたので、長いのはそのせいです。
何しろ、今回の公演は、もったいなくて仕方なかったのです。



『杉本文楽 木偶坊入情 曽根崎心中 付観音廻り』 

by近松門左衛門

演出:杉本博司

キンダイシュラン≪★★☆☆☆≫

人によっては≪★★★★☆≫


杉本文楽見てきた。
企画はとてもいいと思う。
文楽を現代の大きな劇場でやること。
地震で中止になってしまって、それを復活できたこと
観音廻りの復活。
簑助の徳兵衛と
勘十郎のお初。
鶴澤清治の作曲と、天満屋の段。
美術に杉本博司
安定感のある太夫さんたち。

ただ、演出と振付は他の人がするべきだったのではないかと、悔やまれてならない。

あるいは、僕の長年鬱積した曽根崎心中に対する偏愛が、杉本文楽への批判につながっているかもしれない

僕はこれから、よかったと思うところ、こうしたらよかったんじゃないかと思うところ、どうしてああしたのか全然わからないところ、

いろいろ書いていきます。


よかったところ


無駄な舞台装置を省いて、真っ黒な舞台に人形が浮かびあがるようになっている。
それでいて貧乏くさくないのは(予算がないんだろうなあと思わせないのは)、
ところどころにある杉本博司の絵や彫刻のおかげ。
特に、天満屋の段の舞台上部に飾られた赤い着物を横に広げたような暖簾と
次の梅田の橋を渡るときに、舞台上手の上部に飾られた藍染の横断幕がかっこよかった。
天満屋の扉は、大変に作りこんである格子戸で、開閉もスムーズ、引き戸を開け閉めするたびに、格子部分がちらちらと古いアニメーションを見るようになるところがとてもよかった。
道具がとても、きちんとしていた。


舞台全体を黒くしたことで、光の中に人形が際立つのはよかった。

舞台中央奥から一間幅の光のじゅうたんが(光は上から落としている)、
舞台中央上下にも袖に続く光のじゅうたんが敷かれたようになり、
十字架を描いている。
基本的にはその光の中を人形は動く。
舞台はまっさらな黒いパンチカーペットなので、
十字の光からはみ出したところで遣い手が舞台から落ちるというようなことはない。
舞台ツラの中央に幅一間ほどの花道が2〜3間ほど客席にせり出している。
その先端にすっぽんがあって、心中した後の二人はこのすっぽんを下がっていく。


鶴澤清治の作曲もよかった。
飽きさせない音の運びだったと思う。
従来の時々クドイくらいに感じてしまう三味線の音は、
今回は一つ一つが吟味されて発せられているようだった。
もちろん太夫さんたちのベテランの、ちゃんと聞こえる義太夫。抜群の安心感があった。
字幕がなかったから、より一層唄の言葉に集中できたと思う。

現在の、国立劇場などで行われる曽根崎心中はところどころがカットされており、
短縮されているそうなのだが、
従来のものよりもテンポも幾分早く、リズミカルに見えたこともあって、
冗長な印象は全くなかった。
これからは清治さんの曲でやってみてはどうだろうかと思う。

ただ、舞台幕開けの一番初めに、
口上のようにして清治さんが中央のすっぽんから出てきて三味線を弾きだしたまではよかったのだが、
そのあとに、酔っぱらった蝶のように入ってくる胡弓の音色が、どうにもこらえられなかった。
ともすると鋭いシャープな鶴澤清治の三味線に、丸さが出るかと思ったりもしたけれど、
胡弓のへニャヘニャした音に驚いた。
近松のハードボイルドな本は、やはり尖った音が似あうのだと思う。


以上、よかったところでした。


続いてこうしたらよかったんじゃないかと思うところ

細かい演出の跡が見えなかった。
見えないならいいじゃないかと思う人もいるだろうけれど
そういうことじゃなくて、ただ成り行きに任せて動きを作っているようにしか見えなかったのだ。


たとえば、観音廻りのところ
舞台の左右に巨大なスクリーンが一対の屏風のように立ててあるのだけど
その間に光がさして、舞台奥から一人遣いの人形を持った桐竹勘十郎が、烏賊頭の黒子でまっすぐにやってきます。
そうして大阪の町中を33か所参りしていくお初を描いていくシーンが観音廻りなのですが
もっとビジュアルを見せてもよかったはずでした。
札所の看板を実際に撮ってきてフォトショップで切って貼ったような映像が左右交互に映し出されて、
全部が出た後になって、リズミカルな節回しと言葉遊びで寺社仏閣をめぐる歌に突入していきます。
けれど、そのリズミカルな節の中に固有名詞が埋没してしまっていて、
映像はそれを浮かび上がらせることはかないませんでした。
看板を出すタイミングをずらすところに何の効果があったのかはなはだ疑問です。

そしてなにより一人遣いのお初さんのかわいらしさや色っぽさ、と同時に死を思う陰りのある様子をもっと踊りに出せたのではないかと思えてしかたありません。
観音廻りは大阪一周をあっという間にしてしまうところが面白く、
その中に使われているコントラストのある言葉の数々を、決して無駄にしてはいけないと思うのです。
固有名詞から飛び出してくるイメージを、
つぎつぎと出していってようやく表れる観音様にすがるというところに、
観音廻りの面白さはあったはずです。

けれど、杉本文楽の観音廻りにはただただ陰鬱とした死の影しかなかった。
お初は登場した時からすでに死んでいた。

どんなに筋がわかっていようと、初めから死ぬような顔をしている人が死んだところで面白くはありません。
はつらつとした若い、かわいい、美しいお初が、どろどろの恋の渦に命を全うするところに劇的なものはあるはずなのです。


演出の細かさが見えなかったところ。
たとえば、天満屋の段で二人が火打石の音に合わせてそろそろと戸をあけて
ヤッと飛び出すところ。

どちらが先に出るのか、あるいは同時か、その理由は何か、というのはとても大きな問題です。
杉本文楽の場合は同時に出ました。
けれどそのせいで6人の大きな人間が狭い扉の中でごたごたする結果になりました。
これは人形浄瑠璃の面白さというか、魔法を一気になくしてしまうことしかしていません。
詳しくは次にも書きますが、人形よりも、人形遣いが目立ってしまっては台無しなのです。
もっと扉を広くするか、あるいはどちらかを先に出せばよかった。
(さらにいうと、この扉を開けるときにせっかくそろそろとあけていたのに、
終いには一気にバーンとあけてしまって、さっきの緊張感はなんだったのかとなります。
そろそろと全部開けてしまうか、開けた分の隙間からようやく出ないとつまらないのです。
あるいは二人が足を外に出した途端、扉を空中に飛ばして全く二人の世界にしてしまうか。)


人形遣いが目立った理由に、人形使い全員が黒子装束であったことがあると思います。
せめて主遣いは顔を見せるものであったほうがよかったのではないか。
人形の面白さは、人形を操る人間が消えてしまったかのように錯覚するところにあります。
主遣いの人は、特に桐竹勘十郎、吉田蓑助といった素晴らしい人たちには、
どんなに顔が見えていても人形に集中させて自分を消すという技術があるのです。
黒子の衣装にしてしまうのはその技術への不信か拒否にしか見えませんでした。

もちろん、顔が見える主遣いであれば、
客の視界には人間の顔と(しかも人形に魂を入れんと必死になっているのを抑えようとしているのも感じさせない顔と)、人形の顔が入ります。

もしかすると、字幕もなければ舞台も簡素なところでは、
きっと人間の顔が邪魔に思えたのかもしれません。
けれど、あと少し我慢してみていれば、人形だけになったはずです。

黒子というのは、「動いているけれど、見えていないことになっていますよ」という記号です。
黒子にしたところで動いているのは見えるし、邪魔なものは邪魔なのです。

主遣いの顔が見えるのと、黒子の頭巾がゆらゆら揺れているのと、どちらが邪魔かといえば、
黒子の頭巾ではないかと、僕は思います。
というのも、主遣いの顔には、どこを集中してみるべきか、という視線を誘導するものがあるからです。黒子にはそれがありません。
結果、客はどこを見ればよいかわからなくなり、見るところが散漫になってしまうのです。


さらには、お初と徳兵衛が道行でカッパと伏して泣くときに、
黒子の黒い衣装が人形の衣装にかぶってしまいます。
せっかく人形のいい背中を見せようとしても、人形が見えない。
本当ならそのさばき方はあったはずです。
けれど、どうも動きや振付の邪魔になっていたように思います。
そこを杉本演出は指摘できていたのだろうか。


文楽を現代によみがえらせることは素晴らしいことだと思いますが、
よみがえらせるときに、せっかくのいいものを、文楽の魔法を、
踏み潰してしまうのはいかがなものかと思いました。


ミニマルな舞台の良さは大変よくわかります。
ミニマルな舞台だからこそ、ダイナミックなものが映えるのですから、
人形の動きまでもがミニマルであると、演劇は縮こまってしまう危険性をはらんでいます。


最後の最後、
とてもよかったのは蓑助の徳兵衛が、自分の首を剃刀で掻っ切って、
なかなか死なないままお初の亡骸を抱いていくところ。
あんなにリアルな死にざまがあったかと思うくらいにリアルでした。
すごく良かった。
最期の手がピクピクとしかう動かないにもかかわらず、
それはとてもダイナミックなものでありました。



曽根崎心中は、最後二人の死が「恋の手本になる」というところで終わります。
心中は、悲劇ではありません。
だって二人は喜んで死んで来世に連れ添って旅立っていくのです。

もちろん遺された人間たちの悲しさはあるでしょう。
お初だって「私が死んだら両親は悲しむだろう」といって泣いて同情したりします。
けれど、お初は「はよ殺して、ころして」とせがむのです。

心中は、周りの人間にとっては悲劇かもしれませんが、当の本人たちにとってはハッピーエンドなのです。
そこのところをちゃんと見極めておかないと、
ただただ愚かな二人が殺しあったという話にしかなりません。
それでは当時の「おれも徳兵衛みたいに」、「私もお初みたいに」と
心中が流行るほどの力のあるものは作れません。

もちろん、近松はただのハッピーエンドにはしません。
ハッピーにしないために、二人が互いに殺しあうシーンをとてもリアルに描いているのです。
ああ、死ぬのって大変だなあ、痛そうだなあ、いやだなあと思わせるくらいにリアルです。

杉本文楽にはそれがなかった。
意図してなくしたのか、ではその意図とは何か、
頭の固い僕には少し理解するヒントがほしかったです。


以上、本編について。


以下、カーテンコールについて。

カーテンコールがありました。
袖から演者が出てきた後に、すっぽんから桐竹勘十郎・吉田蓑助両名がせりあがってきました。
蓑助さんのあたりを清めるかのような礼に何か神聖なものを感じました。
すると舞台上に演出の杉本博司さんがひっぱりあげられ、そこで短い挨拶となりました。
「自分は演劇に手を染める」との宣言などがあり、裏方・演者への感謝の辞を述べた後
演者に向けて「ありがとうございました」というと、客もつられて拍手。
するとそのまま気分よさげに演者を連れて下手に引っ込んでいきました。
まったく客に顔もむけずに。


とまどったのは蓑助さんと勘十郎さん。
「え、ひっこむの?」とでも言いそうな顔で観客に礼をして、
勘十郎さんは手に持っていた一人遣いのお初人形で、
袖幕から顔を出してさよならと小さく手を振り、
取り残された感じになった観客の心をほっとさせたのでした。


あの挨拶の態度を見ての印象として、
杉本さんは作ったものを客に見せるより、自分で見ているほうが楽しいんだと思います。
もちろん、思い入れは人一倍あったことでしょう。
けれど、今日見に来た客の中には、3月の地震で中止になって、
それでも見たいと思う人間がたくさんいたはずです。
杉本文楽は杉本さんだけの文楽ではなく、
その公演が成立するのを首を長くして待っていた観客と共に作り上げたのだ、
ということを忘れてはいけないと思います。

勘十郎さんが振り返って、手を振ってくれてよかった。
あの手を振ってくれたおかげで、ああ、今日の芝居はよかったよかった
となったのだから。