飛行機を見て、どれだけ驚くだろう。

友達の手伝いをしている。
その稽古の終わった後、ラーメン屋に行ってしばらく話した。
面白い話だったと思ったので(といっても、大体僕が話していたのだけど)
そこで話したことをここにまとめておこうと思った。
まだ全然まとまっていないのだけど、書いておきます。


飛行機の飛ぶところを知らない人に、それが飛ぶことを知らせるために、飛行機は鳥の形をしているんじゃないか?
飛行機が飛ぶなんて信じられない人に、少なくともそれが飛ぶんじゃないかなと思わせるために、少なくとも空を飛ぶ鳥に似せた形をもってこなければならない。
エイの形をした最新鋭のステルス戦闘機をいきなり見せても、きっとそれが飛行機だとは思わないだろう。
鳥が飛ぶことへの感動を覚えておかないと、飛行機が飛んだ時の感動もきっとわからないだろう。


僕らの体には、すこしずつ、「カタ」が埋め込まれていっている。
鳥は飛ぶものだ、という「カタ」があって、その鳥の形に飛びそうな感じを持っている。
飛行機は、鳥の形をしていなくてもいいはずなのに、翼を持っている。
それは翼が空を飛ぶために必要だからじゃなくて、空を飛んでいる鳥が翼をもっているからだ。
「ルール」や「約束事」や「カタ」というものは
一つの芝居について、はじめから、ゼロから、作らねばならない。
「ルール」や「約束事」や「カタ」が始めからわかっている状態で上演されているものを、僕は「馴れ合い」と呼ぼう。


僕らの作ろうとする芝居の面白さは、「馴れ合い」にはない。
それよりも、芝居の発生するところから一緒に「ルール」や「約束事」や「カタ」を作っていく作業とをしていくこと、その作業に面白さはあると思うのだ。
笑える瞬間というのは、一緒に作り上げていった「ルール」や「約束事」や「カタ」を超越する瞬間なのだ。
ああ、その抜け道があったか!というような快感とともに、笑いはやってくる。


そう思う。