「臨界幻想2011」を見てきた。

青年劇場106回公演「臨界幻想2011」
紀伊国屋サザンシアター
byふじたあさや

キンダイシュラン《★★★★☆》

ちゃんとしたものは、ちゃんとしている。
ツイートしたものをまとめておきます。


「臨界幻想2011」をみてきた。
福島県のような地方のとある町に(言葉の響きはもう少し北の感じがしたけれど)
第一と呼ばれる原発があって、心筋梗塞で死んだ(長期に入院もしていた)下請けの原発作業員の本当の死因を調べるために、
かあちゃんががんばっぺ、と立ち上がる。

スリーマイルに影響されて、81年に初演されて、五年後にチェルノブイリがあって、
そのあとも定期点検のたびにそのポンコツぶりを曝す原発とそれを管理するはずの人々の無能を、きちんと書き上げた。

きっと「どうせ芝居だろ」といわれ、「この物語はフィクションです」のごまかしに被われて、見向きもされない不遇の時代があったこの作品を、
いまより深く読み込めてしまうことに、悲しみというか、驚きというか、悔しいというか、そういうのを感じる。

知らなくてもいい知識が、たぶんあって、原発に関する知識はきっと「雑学」であったはずだ。
事故がなければ、きっと「シーベルト」はクイズで難問扱いされて、正解者は「よく知ってる!」ともてはやされただろう。

そういうレベルの知識があの日以来まるで知らなくてはいけない知識であるかのように、ふるまっている。それはとても不幸だ。

「臨界幻想2011」をみて、「どうしてあのとき話していたのに、いまこんなことになっているのか」という無力感をずしっともった。
30年前から同じことしか書いてない芝居の台本があって、どうして今さら、ひもとかなくてはいけないのか。
そういう、悔しい無力感だ。
なぜ、芝居をしたのに、わかってもらえていなかったのだろう、知ってほしいはずの人に、届かなかったのだろう。と。


芝居は、その時しかやってないし、小説が出回るみたいには戯曲は読まれない。だから、ベストセラーみたいに100万人に見られたりしないし、本当に限られた人しか知らないままだ。

僕は「臨界幻想2011」を父親から聞いて見に行った。父親はどこかの会議でアレハスゴイと聞いたらしい。その前日、知り合いが観ていてツイートしていたから、よけいにみたくなった。

まるで演劇は短波ラジオだ。聞こうとしてインフラがないと聞けない。しかもアンテナが弱いと何をやっているのかすらわからない。けれどその内容はとてもいいものなのだ。

「臨界幻想2011」は明日日曜日、紀伊国屋サザンシアターで東京公演を終わります