「当事者」について

佐々木俊尚さん(@sasakitoshinao)の『「当事者」の時代』を最後の章だけ急いで読んだ。


まずは基本と思われていた客観的な叙述やら視点ていうやつへの疑いがあるんだと思って、
けど、当事者にしか書けないものがあるのは確かだけれど、
かといって当事者に書けと命ずることはできない。
生の声がほしいのは確かだけれど、それを無理やり持ってきたら、
リテラシーのない人たちは、あるいはリテラシーでがんじがらめになっている人たちは、
「これ、本物なの?」と疑いをかけるようになってしまいやしないか。


先日『監督失格』を見て、これこそ本当に「当事者」の作ったドキュメンタリーだったと思うんだけど、
何かそういう作品に漂うナルシシズムみたいなものが、どこか受け入れにくさを作ってるように思う。
このナルシシズムをかつての(今もあるんだろうけれど)メディアはなるべく無くそう無くそうとしてきたんじゃなかったのか。
報道は小説ではないし、きっとドキュメンタリー作品とも違う。
ジャーナリズムがいかなるものか僕はよく知らないけれど、アナウンサーの「感情をこめずに正確にはっきりと言葉を伝えること」という原則は
「誰かの側に立っているわけではない」という宣言のように思える。


もし、とある文章で、とある単語に感情を入れようものなら、途端にニュースはどこかのグループに属してしまうだろう。
メディアというものは、きっとそういうものだったんじゃないか。
いったいいつから報道がどこかに属してしまうようになったのかはよく知らないけれど、
プロパガンダが成立するためにはまず「メディアはどこにも属していないはずだ」という前提がないといけない。
どこにも属していないはずのメディアが報じるからこそ、信憑性は増すというものだっただろう。


社説やニュースキャスターのコメントがニュースになってはいけないんじゃないかと思った。


たぶん日本ではそれをやり始めたのは(主流にさせたのは)ニュースステーションだったのだと思う。
「視聴者と同じ目線でニュースをお送りする」という宣言はどこか空しい。
できることなら視聴者の知らなかったことをどんどんと提示していくニュースがありがたいと、僕は思う。
問題はそのニュースのソースがいったいどこから来たのか、という点だけど。


ニュースの原稿がもし「当事者」が書いたものであったなら、きっとはじかれていただろう。
少なくとも「事件の当事者によると」と前置きがあってからその原稿は読まれることだろう。
当事者の書いた文章は心を揺さぶるから良いなんて、言うのはいけない。
人の心を揺さぶろうなんて、考えちゃあいけない。
そうじゃなくて、目の前にあった事件に「わたし」の心が揺さぶられるんだから。
人の心は勝手に揺さぶられるのだから、他人が揺さぶろうなんておこがましいのだ。
佐々木さんが「当事者になることはめったにできない」と最後の章で注意喚起しているのはとても重要だ。
当事者になることは大変に苦痛を伴うし、苦労ばっかりで、表現ができない状態が続くことの方がおおい。
それでも表現しようとしてひねり出した言葉だからこそ胸を打つのであっていくら当事者だからといって、
やった当事者になれた!ようやくこれ書けるぜ!と歓喜して表現をして、そうして心を打つ表現をなす人間は、
よほどの天才か変態か芥川の「地獄変」の主人公ぐらいのものだと思う。
大体の人は「当事者」になれた喜びを感じてる時点で「当事者」じゃない。