支離滅裂ながらも、いろいろ演劇について。


昨日、岩城京子さんが、オーストリアグラーツで芸術の政治的戦略とか、政治の芸術的戦略みたいなことについて、議論を繰り広げる、24時間×7日間の合宿プログラムに参加してきたというので、その報告を聞きに行った。

それと、今日、ハンガリーから来た『女司祭』という演劇作品を見て、
そのあと、森山直人さんが中心になってゲストに松田正隆さんを招いての、リアリズムと俳優と登場人物がいかに批評にかかわることができるのか、みたいなトークセッションというか、なんか、授業みたいな、そういうのがあって。

久しぶりに、頭の中がロンドンにいたときみたいな、難しい単語だらけになって、
ちょっと整理したいなと思ったので、支離滅裂だけど、書いていこうと思います。
ちょっとツイートで書いたものも流用していますけれど。

なにしろ話があっちに行ったり、こっちに飛んだり、読みにくいと思いますが。。。


演劇史というものへ

演劇史が、作れなくなっている、ことに僕は注目したいと思います。


歴史というものは、今の人間が、過去の人間たちがいかに今の人間のために資することをしてきたか、
そういう、自分たちを正当化するためのものでありました。ずっと昔はそうでした。
たとえば、中国の歴史書なんかはそんな感じです。
何が起きたか、物語のようであって、実はいまの自分がどんだけヒーローとしてうまくいってるか、の話です。


それから、いま、学校で教えられている歴史というものは、
主に近現代史に関して言えば、どうやって権力の一極集中から民主主義に移っていったか、という民主主義の歴史を学んでいるといえます。
アメリカではさらに、自分たちが行ってきた植民地政策への反省だったり、
日本だったら第二次大戦における軍部の暴走だったりを学ぶわけです。
ヒットラーは、故郷のドイツでも悪者として描かれるわけです。

僕たちはいわば、歴史の教科書という大河小説を学び、覚え、身にしてきたわけです。


で、現在そういうことができるのかと言えば、実はできないんじゃないか、と考えられているのが実際のところなのだと思います。

何が起きたかは言える。けれど、その事件に関して政治的な意図を全く入れずに学ぶことは大変に難しいことだと思います。
何か、主義のようなっモノがあって、その主義が実現するまでの46億年の歴史を学ぶのもいいかもしれないけれど、
実はその主義は反社会的だと思う人もいたり、弾圧されたり、他人と葛藤を生み出す根源だったりするわけです。

自分の立ち位置の問題


ええと、話が全然違う方向に行きそうだったから変えます。
要は、歴史っていうのを考えないと今の自分の立ち位置は決められないし、
けど、立ち位置を決めることなんて、今はできないし、立ち位置なんかよくわからない状態で、
どう歴史を見ていいのかわかんない、という、なんとも悲しい状況に僕らはいるんじゃないかと思うのです。

職業として、ただレジでバーコードを読み取っていればいい人間がいるとして、
でも、バーコードを読み取るロボットが出てきたら、あるいはセルフサービスでお会計を済ますことになっていたら、
(実際Tescoはそうだったけど)
人間である意味がちょっと分かんなくなるわけです。
そういう時に、人間が人間として、自由であるために、まずはとりあえずの形で肩書きを求めてしまったり、所属する場所を求めてしまうのです。
ノマドとか言ってますけど、それだって、「ああ、ノマドなんですね」と言われて枠にはめられてしまうのです。

枠にはめられることを嫌がる人もいますが、それは、「枠にはめる」という通念がある限り、どうにもできない問題であるのです。

だから、そこは開き直って、自分は〇〇であると胸を張らねばならないんじゃないかと思います。
そのうえで、何をするかが、その人の真の評価につながるんじゃないかと思うのです。
僕たちは、まずは匿名の胸を張ってばかりの状態からでないと、対話ができないのです。
対話をすることで張っていた胸をなでおろしたり、他人に胸を貸したりするわけです。
そのうち腹を割って話す相手ができればいいんですが。。。


また話がそれました。。。

日本の演劇史て、なんですか?


いま、僕が思うのは、日本の演劇史をどう語ればいいんだろう、ということであります。

今日森下ゼミで語られた役と俳優と登場人物の関係や、リアリズムについて言えば、
日本の演劇史はそれではあまり語られるものがない、というのが現実なんじゃないかと思うのです。

もちろん、切り口として西洋ではこうだから、日本もきっと切れるだろう、みたいな気持ちはわからないでもないのですが、
たとえば俳優はリアリティを阻害する、みたいな、邪魔な存在としている、みたいなことで言われてしまうと、
いやいや、日本は違うと、声を出したくなるのです。
というか、
西洋の人たちはそうやってリアリズムの絨毯爆撃でルネサンス期までの演劇史を壊滅に追い込んだわけです。
だから、いまのいわゆるリアリズム演技術でシェークスピアギリシャ悲劇を演じるほかないんです。
そういう、悲しい、伝統の残らない演劇史が実はあるのです。

シェークスピアで演じられていた演技術を復刻しようとしている人たちはいますが、代々受け継いでいる人はいません。
ましてやギリシャ悲劇の当時の姿を受け継いでいる人はいません。
だから、現代の人間に一番通じると思われているリアリズムの演技術と、どこからか持ってきた「儀礼」の所作でもって今の西洋古典は演じられています。
そしていつの間にか、それが過去もきっとこうやって演じられたのだろう、と思われているのです。
それは、恐竜の肌はきっとこうだったといって、ティラノサウルスは緑だとか赤だとか茶色だったとか勝手に塗っているのと同じです。


ピューリタン革命と19世紀末のリアリズムの絨毯爆撃で、唯一生き残ったのは、戯曲という文学だけだったわけです。
シェークスピアが生きていたときの演劇を見て、受け継いでいる人は、実はいなくて、文献だけが残っているのです。
ト書きだけが残されているだけなのです。



日本は違います。


田楽や、出雲阿国がどんなものだったのか、わかりませんが、
その断片的なものはいま受け継がれている祭りや舞踊に見え隠れしています。
そしてなにより、
室町時代に確立された能と狂言があり、そこから派生したと思われる歌舞伎も数々の荒波にもまれながらもその姿をとどめています。
さらにそれは文楽や落語にとどまらず、文学作品もきわめて口語体で残されています。
日本の演劇は、所作と言葉がきちんと残っている点で、西洋の演劇とはすこし違うアタマでとらえ直さねばいけないのだと思います。


明治に入って、(僕はここが弱いのでツッコミどころ満載だと思うんですけど)
歌舞伎や文楽は衰退しても、消えはしなかったはずです。
坪内逍遥シェークスピアを持ってきたときだって、はじめは歌舞伎の演技術でもって演じられていたのです。

新劇と名をうって西洋の演劇を持ってきたところで、それは異人さんたちをなんとか真似てみようということにすぎないわけですから、
精神はとにかく「真似事」であるわけです。それは踊りや音楽をテクニックとして受け継いできた日本人(というかアジア人)のメンタリティであるんだと思うのです。

ロシア人はチェーホフの登場人物みたいにしゃべるからびっくりした、というようなことが当時の日本人から発せられたように、
「芝居がかっている」という言葉は結局、人間がしゃべるそのセリフ回しや言葉の選びが大げさで、歌舞伎の脚本をしゃべるのに適した身体でしゃべっているから、身体と言葉のずれから出てくるわけです。

日本では、明治に入って言文一致運動が起こりました。
それまで、芝居でしゃべっている言葉と、日常で話している言葉が全然違うものだとだれも指摘しないでもよかった文化が日本にはあったのです。


ぼくは、この言文一致運動が結局小説の書き方にしか影響を与えないままに終わってしまった、というところに日本の演劇受容の姿を見る気がします。

自然主義が流行って、文学座が流行ろうとも、きっと人気の役者は歌舞伎俳優だったんじゃないかと思うのです。

さらに時代が下っても阪妻だって、萬屋錦之介だって、長谷川一夫だって、歌舞伎役者だし。


日本の、演劇史を語ろうとすると、近代演劇史がどうも女優と主宰のどろどろした男女関係に翻弄されてしまって、演技論や演出論、演劇論にまで持っていけないのは、それが歌舞伎をアタマっから否定してたわけじゃないのに、まるで今の研究者たちは否定するところから始まる、みたいな視座でもって語るからいけないんじゃないかと思います。

きちんと自国の演劇史を捉えないままに、演劇をしてしまう、しかもそれが許されている、この日本という器の大きさにかまけて、
まるで、大きなイカダに乗っかってこれで安心とあぐらをかいているような感じで、今、僕たちは芝居を作っているんじゃないかと思ったりするのです。


特に、40代の人たちは。
学生運動を「やってらんねー」と無視した世代は今の40代を産み育て、
今の40代はそういう大人たちを見ているから、結局世の中あまり知らなくても何とかなるという勢いで暮らし、
そのツケを今の30代がなんとか巻き返そうとしているような気がします。
団塊の世代たちが知っていながら否定した文化があって、
否定された文化を、知らなくていいと言われた40代の人間たちがいて、
いやいや、知らないといけないぞと今必死になって30代の人間たちは取り戻そうとしているのですが、
直接の上司は40代だから、理解を得られずに、結局自分たちで何とかしようともがいている状況なんだと思います。
引きずられて今の20代は、ゆとり世代というコンプレックスをばねにより高くそのしなやかな吸収力を以て世間を席巻しようとしています。


なんだか、
悲しくなってくるのです。
この内容の文章を、僕は2008年に書いていたのに、結局同じような苛立ちにかられてしまっているのです。
「思考を止めた日本の演劇界」 →http://d.hatena.ne.jp/KindaichiOhki/20081203/1228336300





なんだかなあ。。。


とっ散らかってすんません。僕もあまり考えていることが変わらないので、そのかわらなさに自分でも少しがっかりしているのです。