後悔というものについて


後悔というものに
「やればよかった」型と
「やらなければよかった」型と
とりあえずは二つあるらしいんですが
どうも僕の場合「やればよかった」が圧倒的に多いようです。
けれど、やればよかったと思っていたことの反省として
「思ったことは何でもやる!」になってしまってはいけなくて
その場その場で決断をしなくちゃいけないんですが。


「する・しない」の決断をした後で出てくるのは
「いかに?どうやって?」だと思うんだけど
この、どうやってするか、の内容によっては、
しないほうがいいだろう、と思われたりして、
たぶん、そこの混乱が
優柔不断を増幅させてるんじゃないでしょうか。
優柔不断に陥ると、結果がどうあれ後悔することは明白です。
ほら、やっとけばよかった
だから、ああすればよかった
もう、やんなきゃよかった


結果がわからないわけだから、
何をしたところで結局は後悔する。
けれど、しないことでも後悔するならいっそのことやっちゃうか。
こういう賭けのような人生を
もしかしたら生き続けないといけないのかもしれません。
後悔を恐れて何もしないでいるのは、あまり生産的ではないです。


生きている限りには、僕たちは生きないといけないわけで、
そこでの後悔は、自分たちの歴史を語る上で欠かせないものです。
なるべくなら後悔せずに、生きたい。

そのために根回しをしたり、
外堀を埋めたり、
小悪魔を気取ってみたり、
ジャブを打ってみたり、
覗き見をしたりする。
科学的な証拠にすがり、
引用を振りかざし、
自分の立っている地盤を強固にしてから
議論をぶつけようとする。
けれど、ついつい根回しをしてしまう人の頼りなさというか、
不確かさというものが
実は僕たちの生きてる世界を面白くしているわけです。

後悔は仕方ない。

どんなに自信があった決断でも、
その決断が過去になればなるほど、
決断のぼろが見えてくる。
その決断にすがることはできない。
僕たちはまた新しい決断を迫られるだろう。
過去の決断よりも難しい決断をしないければいけないだろう。
過去を肯定したところで現在の肯定にはならない。
否定したところでも同じことだ。

過去の出来事が
現在の状態にどうやってなったか
この、万物は流転する、の前提で僕たちは考えないといけない。
流転のプロセスすら、流転するのだから厄介だ。
「プロセス」と名前をつけたとたんに、
それは違うものになっている。

僕らは後悔する。

けれどそれはきっと、
自分の判断が過去のものになったからだ。
過去と現在を比べることはできない。
同じものが一つとしてないからだ。
思い出は美化され、
悔しさは増幅する。
けれどいつかその後悔が
また新しい後悔を生み出すことになるかもしれない。
後悔したことに、後悔することがきっと起こるだろう。


後悔が僕たちの人生を埋め尽くしている。
やらなかったことに対しては、
いまさらやってもどうにもならない状況が、
やったことに対しては、取り返しのつかない状況が
それぞれ待ち構えている。


根回しや情報収集は、後悔の具合を減らすためのものだ。
決してなくしたりすることはできない。
「勝つ試合しかしない」人にとっては
負けるかもしれない要素(リスク)を
なるべく減らすことに執着するだろう。
けれどこのリスクを消し去ることは決してできないことを
きちんと知っておかないといけない。


僕たちは後悔する。
けれど後悔ばかりもしていられない状況が
きちんとやってくる。
もしかしたらそれを人は、希望と呼ぶのかもしれない。
そのとききっと、
自分の決断を「よかった」と思えるのだと思う。

出会えてよかったと思ったときには、
きっともう、その相手はいないのだけれど。


余談。

どうしてかな、
一人の時に限って二人になりたがり、
二人の時に限って一人になりたがる。
お互いがお互いを求めたときなんて、実はないんじゃないか。
あったとしても、それを本当に僕らは感じ取れているだろうか。

たとえば、スキーの経験を
「何回やったことある?」と聞かれて、
とっさに何回と答えることのできる人はなかなかいないだろう。
スキーは回数じゃなくて、
どれだけの期間、どれだけの距離を、何シーズンやったか
そういう要素がぐちゃぐちゃに混ざっているからだ。

人がなにかに没頭している状況も、
このスキーの回数に似ている気がする。
「今日何回彼女のこと考えてた?」という質問は愚問だ。
いつも必ず恋人や仕事のことを考えているだろうから。
問題はその質なんだ。