追加。自分のことが嫌い、っていう人たちについて。

朝っぱらからものすごく天気が良くて、
トマトとブルーベリーでシルアル食べて、
これから勉強でもしようかと思っているのだけれど
ついついあらぬことを考えてしまいます。


自分のことが嫌いだ、と言っている人の気持ちが
いまいち僕にはわかりません。


自分の周りの世界がものすごくキラキラしてて、
比べて自分の惨めさにがっかりすることもあるし。
何をやってもうまくいかなくて、
自分がこの世にいてもいなくても同じなんじゃないかと
思うときもなんかいも思ったけれど、
だからといって自分が嫌いかと言えば、そうでもないように思います。


自分が嫌いと言っている人たちは、
自分に厳しいとか言うけれど、
実際のところ自分の何がわかっているんでしょう。
僕自身わからないから、わからないものを嫌いにも好きにもなれないです。


動きのキレが鈍くなったとか、
言葉の浮かぶ連想力が衰えたとか、
体力が限界になったとか、
瞬発力がなくなったとか、
そうやって仕事をやめる人たちはいるけれど、
そのまま人間もやめちゃうようなのは、
どうも違うと思うのです。


なんていうか、
笑点やめて、そのまま昇天してもらっちゃ困るわけです。


極端な話、
自分が嫌いといって自分を殺すようなことができるのは
よっぽど自分のことが好きだからなんじゃないかと思います。
だって、死ぬことを許しちゃうんだもん。
もう、たぶん、最高の快楽だと思います。死ぬのって。
すべてからの解放とか、自由とか、空気になるとか、大地と一体になるとか
そういう快楽を嫌いな人間には与えないでしょう。


追い詰めて追い詰めて死んじゃう人たちは
結局自分のこと好きなんだよね、と思うんです。
自分のことが嫌いな人は
もうちょっと生き延びていくんじゃないかな。
わかんないけど。


けれどもしかしたら、追い詰めて追い詰めすぎて、
体がまったくいうことを聞かなくなっても、
それでも動かそうとしてしまう人っていて、
もしかしたらそういう人こそ、自分が嫌いで仕方ないっていえるのかもしれない。
嫌いっていうか、動かない自分を許せなくなっちゃうんじゃないかな。
「もっと動け!」っていう感じでさらに追い込んでいって。


そうしたらきっと、体と心がちぐはぐになってしまうんだろうな。


走馬灯と怨み言

ちょっと話題は変わるけど
今わの際の走馬灯とかいうのは、
もう未来がないことがわかっているから
過去がいっぱい見えるわけで
そこで「ありがとう」とか言えちゃうのはわかるけど、
「ああ、あれやっておきたかった」と言って死んでいくのは
未来に心行っているわけで、
だからこそ化けてこの世に出てくるわけで。


死なれたほうにとってたまらんのは、
たぶん「も一度会いたかったな」っていう
言い残しなんじゃないかと思います。

さらに脱線。

生きがいとか、
仕事が命とか、
家族が支えてくれたとか、
そういう自分を支えてくれているものを失くした所で、
残った自分というものは、やっぱり自分なわけです。
喪失感はすごくわかるし、
支えを失ったときの悲しみや
あとを追いたくなる気持ちもわかるけれど。


その喪失感を埋めるには生きてないといけないわけで。
喪失感はもともともって生まれてきてるわけだし。


ちょっとかなりずれましたが。
嫌いだから死ぬっていう構図を
すぐに作っちゃうのはいけないんだけど。
ついつい。


自分が嫌いな人たちは、
一体どこまで考えて自分が嫌いだと思っているんだろう。
まだ僕にはよくわかりません。