ネタバレだらけのエクウスのレヴュー。


「Equus」
By Peter Shaffer
Cast Daniel Radcliff & Richard Griffiths
@Gielgud Theatre
£32.15
2-March 2007 Fri.

キンダイシュラン《★★★★☆》


あんまりまとまってませんが、気の向くままに書いていますので
途中ネタバレとかあるし、話はビュンビュン飛びますが、
それでも興味のある方だけどうぞ。

とりあえずは残念なところを。

まず、今回残念だったのが、リチャードグリフィスが病気で
代わりの俳優さんが脚本片手にやっていました。
よっぽど急な欠場だったらしく、急遽代わりに出た俳優さんはとってもかわいそうでした。
たぶん、一幕しか練習する暇がなかったのでしょう。
一幕のクライマックスから休憩を挟んで二幕の最後まで
なにやら白いノートを見ながらの演技でした。
これはもうとっても残念だったのですが、
彼の演ずるところは精神科医なので、医者のカルテなんだと
僕は自分に嘘をついて見ていました。
すると結構気にならなくなるもので、二幕の盛り上がりなんかはちゃんと見ることができたし、
それ以上に
ついつい、のめりこんでしまいました。

すごく疲れる芝居でした。
しかもかなり考えさせられるものでした。


も一つ、大事なことが。
精神科医に見てもらうことになる男の子を
ハリーポッター」でおなじみのダニエル・ラドクリフが演じています。
前評判としては、
「ダニエル、裸になる!」
「ダニエル、タバコを吸う!」
「ダニエルくん、馬並み!」
と言うものだったようですが、まあ、
ダニエル君そのものが馬でした。
直球体当たりの演技をしているので、
いうなれば藤原竜也みたいな感じでした。
まだちょっと幼さの残る感じは
キャラの17歳っていうのにぴったりだったと思います。
遠い客席で見ていたのでその、裸になったときに
彼がいかほどの持ち主なのかとか、
そういうことについつい目がいってしまいますが
まあまあ、それなりのものを持っていました。
それよりも鍛えてある上半身の感じがすごく良かったです。




さてネタバレも含めての話。

さてさて、この話、結構深刻な話です。

ある夜馬小屋で6頭の馬の目をつぶした17歳のアランが、
精神科医ダイサートに会うところから始まります。
アランは馬をこよなく愛していたけれど、
そのときに限って、なぜ目をつぶしたのか?
一体なぜ馬小屋にいたのか?
という、ちょっとしたサスペンスです。

っていうか、もう話としてはわかりきった話で。


アラン君は教育の厳しい両親にしつけられた。
母親は宗教を教え、父親は息子の快楽を奪っていった。
アラン君は馬がだいすき。
事件の夜、アラン君は馬小屋で女の子と一夜を過ごしてた。


もうこれだけです。
しかもこれあらすじを調べれば全部載ってます。
けれど、このあらすじを知ってなお面白かったので、
これはオススメ。



精神科医が出てくるだけあって、相当な数のキーワードが出てきます。
エディプス・コンプレックスや、マイ宗教作り、
セックスへの興味と拒否、モラルとの戦い、快楽への誘い、
父親に奪われた快感の奪還、母親の影響、
アイデンティティの回復
といったところがそれとなしに出てきます。
もちろん登場人物たちがそれらのキーワードをそれらしく言うわけではなく、
物語を見ている観客たちが、それと推理しながら
これらのキーワードを思い起こさせるようにできている脚本なので
まったくピーター・シェーファーという人はすごい作家だと思います。


芝居を見ていると
はじめてのエッチとか、
どうしても邪魔な親の影とか、
魅力的な年上の異性とか、
失くしたものを、もう一度取り返したいという気持ちとか、
そういうあたりがずんずんと思い起こされて、ホントに疲れます。


こういう芝居は本当にずるい。


さて、
も一つ触れないといけないのは、肝心の馬の描写。
馬の役の人は、針金でできた馬のマスクをかぶって、
茶色い全身タイツを着て、足にひずめを模した靴をつけて、
パカランパカランとうまく音を出しています。
決して四つんばいになることなく、二本足で立つんだけど、
前足だけの姿でも自然と後ろ足まで見えてくるような
演技をしなくちゃいけなくて、これがものすごく良かった。


ちょっと引いて見たらマスクをかぶった人なんだけど、
ちょっとのめり込んだとたんに彼らは馬にしか見えません。
後ろ足が見えました。
馬がそこにいたもん。


アラン君が馬に乗るシーンがあって、
馬役の人の上に肩車をするわけだけど、
これが素敵なことに馬に乗ってるようにしか見えないの。
肩車じゃないのよ、もう、鞍に乗ってるのよ。
肩車が馬にのってるように見えるっていうの発見をした人
やっぱりすごいわ。


馬の毛並みを整えるシーンていうのがあって、
これがものすごくセクシーなのね。
馬のもだえる感じを馬役の人は
前足二本とマスクを揺らすだけで表現しちゃう。


パンフを見たら馬の人はみんなバレエダンサーでした。
さすが身体の使い方をきちんと知っている人たち。
6頭の馬それぞれが主人公のアラン君を責めるあたりの緊迫感は
もう、彼らにしか出せないだろうと、思いました。



やばい、べた褒めです。
馬の人たちに万歳を捧げたいです。

芝居の嘘と、観客の参加っていうものについて。

エクウスの話はこれぐらいにしておいて、
今回の芝居を見て思ったこと。


芝居を見るためには観客も自分をだまさないといけない


ということです。


どういうことかといえば、
今回病気で出れなかったリチャード・グリフィスの代役の人は
手に台本を持って演技をしていました。
それが台本だと思ってしまうとものすごく興ざめしてしまったのだけど、
そこを何とか「あれはカルテだ」と思い込んでみていたら、自然と気にならなくなりました。
また、馬の人たちもそう。
「あれは馬だ」と思えば思うほど、
二本足の人間に後ろ足が生えてきて、完全な馬に見えてきます。


カルテも馬も、その想像力でもって補わないと、
この芝居を楽しむことはできません。
舞台にいる役者たちが自然と芝居をしているうちに、
観客の意識しない間にだませることができれば完璧なんですが、
そこまで観客をだますのは難しいものです。
そこで、観客は自分に嘘をついてみる。
すると、はじめて楽しめる

嘘をついてまで楽しみたくはないと誰かは言うかもしれないけれど、
それではなんだかもったいない気がします。
せっかく愉しみに来てるなら、楽しまないと。


自分をだましている時点ですでに楽しくないと感じる人にも、
「まあ一回、だまされたと思ってやって御覧なさい」と言いたい。


参加する観客っていうものを考えてしまいました。
どこまで観客は自分をだませばいいのだろう、とか。
「この番組はフィクションです」とかならずテロップを入れないといけないテレビドラマのこととか。
「同じアホならおどらにゃそんそん」とか。


芝居の嘘はそのカーテンコールまで決して見破ってはいけません。
見破って冷めたツッコミを入れて楽しむ人もいるけれど、
嘘をつき続けてこそ芝居は成り立つものなんだと思います。
カーテンコールで役者たちが並んだとき、あの沸き立つ観客の拍手は、
役者におくられているのでしょうか、
役者の演技におくられているのでしょうか、
「だましてくれてありがとう」という意味なんでしょうか。
「良くぞだましてくれた!気持ちよかったぞ!」という意味なんでしょうか。


今回自分に嘘をついて芝居を見たことを意識してしまったけれど、
この意識のないままにのめりこんでいたら、
相当な衝撃を受けていたんじゃないかと思います


芝居ってやつは、
観客の心を一枚一枚はがしていって裸にしようとたくらんでいるものなのではないでしょうか。
もしここで観客が自ら心をさらけ出していけば、
逆に芝居と観客との間に自然な距離が生まれるのではないでしょうか。

suspension of disbelief
とか
芝居の嘘
とかいわれるものが成立するために大切な観客の想像力は
観客の心の開き方によって大きく違ってきます。


芝居をまったく知らない人が今回のEquusを見たら
白い紙はカルテに見えると思います。
まさか台本を持って舞台に立っているとは思わないだろうから。
けれど馬は針金のマスクをした二本足の人間にしか見えなかったと思います。
「あ、馬をやろうとしているんだろうな」という気持ちと
「なぜ、それで馬になれるの?」という葛藤が起こって、
その役者たちを馬と見るまでに相当な時間がかかるでしょう。


しかし最後、本当に裸になって
セックスをしようとする男女を目の前にして、観客は息を飲みます。
それまで嘘をついてきた観客の目の前で、
本当のセックスを見せ付けるわけですから。


芝居につきものの「嘘」について
よくよく考えさせられる芝居でした。
ダラダラとごめんなさい、まとまってないですが。

そろそろ終わります。