なんだか、ちょっと内容が薄いです。


ダラダラ考えてます。


ここのところ、いろいろ忙しいを身にまとって、演劇を見ていないっていうのもあるのですけど、ちょっとここに書いてる内容が薄いような感じがします。
書いて公開して、ちょっと恥ずかしいくらいなんですが、思うに、ちょっと物事の消化能力が衰えてきたからではないかと、自分では感じます。

そろそろ吐き出す時期に来ているということなんでしょうか。
ただこのところ、便秘気味です。


先日、現在通っている大学院での発表を終えて、一週間の休みを置いて、
今日、本格的に修士論文執筆に入りました。
この一年で自分が学んだこと、
もっと言うとイギリスに来てから、あるいはもっとその前からずっと考えていたことに
ある程度の決着をつけるときが来たわけですけども、
そんな簡単に一万二千単語の論文に収まるような話ではないわけでして、
きっと更なる段階に行くためのステップとしての修士論文なわけですけども、
それにしてもつくづく自分の、ただ感情のままに行こうとする思考が憎くてたまらないです。


最近、余裕ができたのか、あるいは逃避なのか、
三島由紀夫の「豊饒の海」四部作を読んでいて、
ちょうど昨日、第二部「奔馬」を読み終わったところなのだけど、
「春の雪」と「奔馬」に共通する純粋な若者というものの未熟に、共感というか、同情というか、
自分に似たようなものを感じてしまって、ちょっと大変です。
第三部をこれから読もうかどうか、ちょっと休んでもうちょっと専念すべきものがあるだろうとも思っています。


なんといいますか、常に自分を知りたいと思い続けているのですけれど、
それはもしかするとプライドという名で語られる「自分を知る恐ろしさ」に邪魔されて、
どうやっても自分のことは他人にしか理解できないのではないかと、思ったりもします。
自分を知っているのは他人で、他人を知っているのは自分であるのだけど、
他人の中で作り上げられている自分を知ることはとても危険であるように思うし、
自分の中で作り上げた他人の像を相手に伝えることもなにやら危ないような気もします。
かといって、自分で自分を知ることはまさしく難しいことでして、
「汝自身を知れ」などと言いますけど、自分を知ることへの恐怖がある限り、それはどうも身体に悪いことなんじゃないかと思う反面、
占いや簡単な心理学や夢判断で自分を分析しようとする楽しさもあるわけだから、どうやら自分自身を知ることは身体にも良いことなのかもしれないと思ったりするわけです。
(占いや心理学や夢判断で自分を知ったようなことをいうのは、これこそ自分を知ることを拒否している行為なのだともいえると思うけども...)


よくわかんないんですけど、
どうして、人から何か自分のことをずばり指摘された時に、人間同士のつながりがグッと縮まるんでしょうかね。
それが図星であればあるほど親近感を覚えたり、憎く思ったりもします。
とにかくも、その自分のことを指摘した相手を思う時間が大変に増えるわけで、
これを勘違いして恋だとかなんだとか言うんだと思うんですけど。


たとえば、よく言う孔子の話を引くまでもなく、他人を知っておくべきなんだけど、
それでもやっぱり自分を知るための手段として他人の中の自分の像を知ろうとするのは、
やっぱり自然になるべく作業を減らそうとする横着な人間性ともいうべきものがあって、
「な〜そ」っていう禁止の文法をやめて、「〜するな」にしまったような、
そういう横着することにこそ、なにやら人間的なものを僕は感じます。
横着して自分を知ろうとすることは、もしかしたら人間としての思考の停止を促すことなのかもしれないけれど、依存しあっているわけだから、自然と自分は他人の像を自分の中に作り上げて、他人の中に作り上げられた自分の像を見せ付けられ、っていうこの循環の中に人間関係は育まれていくように思います。
このときとても邪魔になるのは「オレはそんなんじゃない」っていうプライドだったり自信だったりするわけです。


この変な「オレはそんなんじゃない」っていうものは、一体なんで生まれてくるんでしょう。
結局人間死ぬときは一人だからかな。



まるで磁石のような関係にある、独立していたい気持ちと、依存しようとする気持ち、の
このバランスの取れた人間になるのが、きっといいんでしょうけれど。


自分を知って、どうなるっていう、そういう話もあると思うんですけど…。
他人を自分の中の記憶に当てはめてそれ以上成長させないことは失礼に当たるっていうのもあるけれど、じゃあ、連絡もなく生き別れになったままの人間をいかに成長させたとて、それもきっと失礼に当たるんじゃないかと、思ったりもします。
たとえば、友人とまったく連絡もとらないままでいれば、
その友人の姿はいつまでも別れる直前の姿のままであるわけで。
ひょんなことで、現在の姿を垣間見ることができたとしても、
空白の時間を埋めること無しに昔の姿から現在の姿へ移し変えることはちょっと難しいんじゃないかと思います。
やっぱり、空白の時間に何があったのか、すごく気になるのが人情ってやつなんじゃないかと思います。


どうしてか変化を受け入れるっていうことに関して、少なくとも自分は、とても鈍感にできているように思います。
もし人間ってやつもそうなのだったら、臨機応変とか万物流転とか、無常とか、そういうのはもともと苦手なものだから言葉になったりしたのかもしれないなあ。。。。
と同時に、永久不変っていうのが人間のおごりのように扱われるのも分かる気がします。


なんで人間の思考ってやつは、変化を当たり前のこととして認識できるようにできなかったんだろう。
自然は常に変化するし、人間の身体も常に新しいものが生まれて死んでいくようになっているのに、
どうして思考というものは、ある一点の時間にこだわってしまうんだろう。


なんてなことを、ダラダラと考えてみました。
とりとめないですけれど。