現代の征韓論。


ふと思ったので、なんというか、難しい話なのだけど。


明治政府が西洋の文明・文化を勉強しに岩倉さんたちを遣っている隙に、
西郷さんと板垣さんをはじめとする連中が、征韓論なるものを出した。

ぼくが高校で習った範囲でいうと、
明治政府があんまりに簡単にできちゃったものだから、
まだ有り余っている元気な連中が内にこもって内乱を起こすのを防ぐため、
外に顔を向けて、そっちでストレスを発散させようとした。
まあ、簡単に言うとそういうことだったんだと理解してます。
なので、そういう点で西郷さんのことはあまり好きじゃないです。
というか、当時のできたて明治政府の混乱がよくよく見て取れるように思います。


さて、これまた学校で習った範囲で話すと。
当時の列強諸国は帝国主義真っ最中で、
アフリカ・アジアに自分たちの植民地を作るのに必死だった。
中国には「お茶」があったし、インドには「絹」と「綿花」があった。
西アフリカではアメリカへ向けて奴隷が「発売」されていた。
南アフリカには「ダイヤモンド」と「金」があって
東南アジアには「マーケット」があった。
三角貿易でもって列強だけが潤うシステムを作ってしまって、
その体制を壊そうとするものは、武力でもってこれをつぶしにかかった。
というのが、簡単な帝国主義だと思うのだけど、
そこを底辺で支えていたのは「お金をたくさん持ってるほうが強い」という
資本主義というものだったんだと思います。


この資本主義と帝国主義の区別もままならないころに、
征韓論を出してしまった西郷さんたちは、
帰国した岩倉さんたちに「いや、ちょっとそれは待て」といわれてやめちゃいますが
結果西郷さんたちは、いわば逆ギレして、西南戦争へと突っ走ってしまうわけです。
担ぎ上げられた西郷さんは大変だったと思うけれど、
担ぎ上げていた連中の、主にやり場をなくした元武士の連中の心中を思うと、
なんだか現在の派遣社員だとか、非正社員だとかに思えて仕方ないです。


僕自身、派遣のバイトというのをしたことがあったのだけど、
ていよく言ってるだけで、あれはその日その日を食いつないでるのと一緒です。
口入やさんがあって、
そこで番頭さんが「さ、今日はこんな仕事があるよ、
熊さん、あんた人当たりがいいから、あの小言のコウベエさんとこのお手伝いにいっとくれ」
なんていうのと同じです。


そこで変にプライドの高い連中が集まって、
「俺は剣ができる」
「俺は弁が立つ」
「わしは蘭語が読める」
などと言い合って、「あんな仕事はこちらの誇りが許さん」といって引きこもってる。
幕末の雰囲気はそんなんだったんじゃないかと、思います。

「自分はアニメ・ゲームのことなら話せる」
アメリカで語学留学してきた」
「とりあえず大学は出たけど、自分探ししてる」
「中卒だけど、ずっとバイトして、年上の部下がたくさんいる」
「世界のすべては仮説にすぎない」
「政治家は全部政局のことしか考えてない」
「幽霊が見える」
「手相占いが得意」
こういう連中が、ネットで白熱してたりするだけで、
直接なオフ会はめったにない。
オフ会があったとしても、共通の話題しか話さず、
そこからはあまり議論は発展しないんじゃないか。
専門に特化した連中が集まってるだけに過ぎない。
なんというか、これは伊集院光が言ってたんだけど
「オナニーをどれだけがんばって開発しても、すごいセックスにはならない」
っていうのと同じで、
「幽霊がすごい見える」人はすごい見えるだけで、
そこに誰かをアドバイスするようなことは結局できないと思う。


「すごいできる」人たちが、いろんなところから集まって、
何かをしようとなったときにだいたい起こるのが、
全員一匹狼気質を持ってるがゆえに、全員負け犬になるパターン。
関が原の戦いで石田三成の軍隊ももしかしたら似たようなものだったのかもしれないと思う。
局地的には真田幸村とか、いい人は出てくるのだけど、大局で何もできないで終わっちゃう。
船頭多くして山登るとはよく言ったものだけど、
船頭いなくて船沈没、という状況になっては元も子もない。
船に乗ってる人たちはたくさんいるのに、だれも漕ごうとしない、誰かが漕ぐのを待っている
そういう時期に、俺がやるといった人が出てきて、ちょっとでも岩にぶつかると
「ごめんなさい、俺じゃ無理ですやめます」ってなっちゃうか、
乗ってる連中から
「てめえ、さっきから自分がえらいと思ってんじゃねえよ」とやじられて
「ごめんなさい、はい、やめます」となっちゃう。
結局船はどこにも行かないことになっちゃう。これはどうもいかんと思う。



幕末の、問題がクリアな時代はもうちょっと話は簡単だったと思う。
とりあえず、西洋列強の連中と対等にならなきゃいけないっていう問題があった。
勝海舟とか、西郷さんとか、吉田松陰とか福沢諭吉とか、
たくさんの知識人たちが出てきた背景には、
「どこにもやり場のない連中」がたくさんあったのだと思います。
何も新撰組彰義隊、白虎隊だけが戦ったわけじゃない。
そのほかにも、「幕府軍」や「薩長連合」には、
まるで、
大学に入って就職して、営業にまわされた人たち
みたいな、名もない連中がわんさかいたんだと思います。


そういうわんさかいる連中をある程度無視してでも、
「日本はこうなります」って無理やりやっていったのが、
幕末からいまの時代には脈々と受け継がれていたと思う。
でも、そのしっぺ返しを食らっているのが、現在だと思う。


いまの人にはさらに困ったことに、
何をするにも「何でそうするのか」を明確に出していかないといけない。
すべての行動に根拠が要求されて、
大体の人は「じぶんはこうしたい!」という衝動と
「でもなんで自分がそうしたいのかわからない!」という叫びの板ばさみになっている気がする。
一方で「何でそうしたいの?」と他人に聞いて、
自分では「自分のやりたいことがわからない」と悩む。
そんなことを悩んでる隙に、いかがわしい宗教や変な主義に染まってしまってはこれはホントにいけないと思う。
かといって、自分のしたいことをしたいだけする、したいだけできる、
なんていう人はそうそういないわけです。
したいことをしたい、という生き方は大変に魅力的かもしれないけれど、どうも胡散臭い。
どうやっていいかわかんない、どう生きていけばいいのかわかんない、
そういうときに、西郷さんたちは「征韓論」なるものを出してきたんだと思います。


明治の征韓論は(西郷さんは武力には反対したらしいのだけど)
武力でもって、国外にある領土から利益を得て、国内の鬱憤を晴らすものだった。

現在の征韓論は(もう対象は韓国だけじゃなくて世界全体になるのだけど)
技術でもって、国外にある市場から利益を得て、国内の企業の鬱憤を晴らすだけのものだと思います。


まだ同じことを繰り返しとるぞ、と。
ただただ突っ走ってるだけです。これでは。


日本の技術ってやつはとんでもなくクオリティが高いし、
クレラップなんて、もう世界最高水準の技術の結晶だと思う。
アニメーションの世界も、ゲームの世界も、
やっぱりジブリのアニメと、メタルギアソリッドが抜群に面白いわけです。
光ファイバーのネット技術だって、太陽光パネルだって、
日本の技術の世界のシェアでいえば、とんでもないところにいるのに、
どうしてそれを「Made in Japan」と声高に言わないかといえば、
その明治政府のころの征韓論の愚かさへの反省が、あるからだと思います


海外にぼくは住んでいるから、
日本の技術の便利さによくよく感心するのと同時に、
日本の技術を使えてない日本人というものをよく発見します。
それをぼくは、技術をあえて使わない「奥ゆかしさ」だと思うのだけど、
その奥ゆかしさを逆に利用されてしまっている状況にやり場のない悔しさを感じます。
なんというか、
蝶々さんをもてあそぶピンカートンに対する悔しさがぼくにはあります。


列強諸国にその奥ゆかしさを説くのは本当に難しくて、
奥ゆかしさを説くという行為こそが、奥ゆかしくないから、そこで自己矛盾が起こるわけです。
でもそういう矛盾をはらんでいるということを、ちゃんと僕らは知らないといけないし、
知った上で、それでもいいたいことはあるんだと、いい続けなければいけないと思う。


奥ゆかしい日本国内で、内乱が起こるとすれば、
それは征韓論で「日本の技術をもっと海外へ!」といった連中と、
明治政府側の「それはちょっと待てよ」という連中との間で起こると思います。
ずうずうしさと奥ゆかしさの間で、戦争が起こる、そんな気がします。


一方外に出た日本人っていうのは、きわめて現地に溶け込むのが上手な人たちで
中国の人たちのように異国でチャイナタウンを作って固まることもなければ、
アメリカの人たちのように他に何かを押し付けて、他人を同化させるようなこともしません。
しかも、「いいものはいい」というちゃんとした目を持っているはずなのに、
「外から来たものはいい」というフィルターも持っているから、
余計にわかんなくなる。
幕末にたくさん起こった逆輸入は、現在において煙たがられているように思います。
これはいったいなぜなんだろう。



特にロンドンにいて思うのは
ロンドンにいる日本人の、ちょっと「負けてる感」です。


日本の外に「出る」ことと、「追い出される」ことは違うはずなのに
どうも肩身が狭いように思う。
言葉が話せないという先入観がまず大きな壁になってて、
こうして日本語で話す未満のことしか話せないと思っている。
僕はこれは「夏目漱石の亡霊」だとおもうんだけども。
ロンドンというあまりにも文化背景の違うところに住んで、
その違いに愕然として、あるいは呆然として、しまう。


日本ではやっていけないと思って、ロンドンに来た連中に多いのは、
結局イギリスでもやっていけない、という現実だと思います。


そういう、根無し草のような人たちに漂う「負けてる感」をぼくはすごく悔しく思っています。


帰る場所がない、あるいは帰る場所は捨てた潔さがあればいいんだけど、
どうも未練たらたらのアマちゃんが、ロンドンにはたくさんいる気がします。
で、そういう人たちは、常に一匹狼なのです。
一匹狼の連中をまとめ上げるのは、
さっきも言ったように無理だから、
一匹狼の作るコミュニティを支えるものがないといけないんだと思う。


ロンドンは、日本から「逃げてきた人」の吹き溜まりではなく、
日本から「わざわざやってきた人たち」の場所であるべきだと思うんです。
ロンドンに限らず、自国以外の国々の都市で活躍する人たちは多いけれど、
そこは逃げ場ではなく、「そこでないとできない場所」であるんだと思います。


幸い僕の友人は、それなりに海外の都市で自分たちの、
そこでないとできないことをやっている人が多いです。

問題は、海外にいけずにくすぶっている征韓論者たちです。
ただひたすらに「日本の技術を海外へ!」といい続けている人たちです。
いまのままでは、入ったっきり、帰ってこないことのほうが多いような気がします。
さっき言ったように、海外に出て行く人には負けてる感があるから、
その「負けてる感」を払拭しないといけないと、僕は思います。
と同時に、
「強気の日本人=戦前の軍国主義っぽさ」も払拭しないといけない。


夏目漱石みたいに、
ぼろぼろになって「どうしよう!」と言ったまま立ち往生しちゃいけない。


もっと正当に、真っ向から、そしてニュートラルな立場から、
「いいものはいいんだぜ」って言って、「たしかに!」と言ってもらえる、
そういう関係を地球の上で作らないといけない。
そこで使われる言語は、英語フランス語日本語中国語、なんだっていいと思う。
みんなが使えるなら、つまり、人間の本質を突くことのできる言語であるなら。


僕はその言語は英語ではなく、日本語だと思うのだけど、
それはもしかしたら、日本語が僕の母国語だからなのかもしれない。



わ、すごく長くなりました。
ぜんぜんまとまっていないけれど、年末なのと、今年の反省をしてたら、ちょっと長くなりました。
「日本語の亡びるとき」という本が出ているらしいですね。
ぜひ読みたいところです。