憧れとその実現と。


どこの国にいても、憧れの地っていうのはあると思います。

三蔵法師は天竺を目指したし、
ゴッホは日本の日差しを求めてアルルに行ったし、
戦後の日本人はアメリカを目指した。
アレクサンダー大王はその土地に続きがあるから東を目指して、
そこに現れる人々を仲間にしたり殺したりして、インドを見た。
ナポレオンはきっとアレクサンダーになりたくて、東を目指した。

今ゴシック・ロリータの服がだんだん普通になってきているけれど、
あれが出てきたときの衝撃はすごかった。「なんだあれは?」ってなって、
そこに隠れたマリスミゼルのマナ様の存在が浮かび上がってくる。


「ベルサイユのバラ」で花咲いた西洋の美しさを知る心、
次々とやってくるハリウッドの映画。それと同時に入ってくるフランスやイタリアの映画。
(イギリスにはきっとてっぺんに立ってしまったがための「全部入ってくるだろう」という自負があるために、結果的には何も知らないでいてしまうのではないか)
さらに、森薫「エマ」が出てきたあたりでそのイギリス趣味の塊のようなものがでてきて、
それをなんとか自分のものにしようとする手先から生まれたデザインが、
ゴシック・ロリータなんだと思う。
ゴスロリは西洋への憧れのキメラみたいなものだけれど、
それは周りを圧倒する力を持って、批判をねじ伏せて見せた。
だって、かわいいもん。
すると自然に、かわいいか、かわいくないかの判断は無くなって、
それを着る人か、着ない人かになって、
それを着ている人たちへの個人的な非難になってしまって、
残念なことに、ゴスロリを語ることは実のところあまりなされなくなってるんじゃないか。
個人への批判は、ただのいじめにつながってしまうからだ。


思想から生まれたにもかかわらず、それを超えたデザインがゴスロリの持つ魅力で、
いまでは本家であったはずのイギリス、フランスの女の子たちがインターネットを通じて
ゴスロリの服を買い求めている。


同じことが、マトリックスで起きた。
けれど、マトリックスは見て、攻殻機動隊をみることが難しくなってる。
そこにはもっといい映画を作る宮崎駿がいるからなんだけど。



いま、
戦後の日本人たちは、アメリカのどこに憧れているだろう?
憧れの矛先は一体どこに向かっているだろう?


実際のところ、憧れる側ではなくて、
憧れの対象になってしまっていることを、もうちょっと知っておいたほうが良いとおもう。

気付けば日本ではサブカルチャーが消えてしまって、すべての文化があまねく手に入る状況になっていて、
ヴェラスケスの肖像画と、ゴッホの絵と、会田誠の絵の受け入れられ方が、大体一緒になっているような気がする。
それは、「絵画」として。


ホントにいま、カオスな状況になってて。
だって、今演歌が流行ってるんでしょう、日本。
千の風になってが出たあたりでまじでヤバイと思ったよ。
そしたらジェロじゃん。
そんで、Avexからまた出る新人の歌が「在りし日の」ELTだったり、アユだったりするじゃん。

いつまでたっても、自分の文化をくだらないものとして扱って、
海の向こうの人がいいと言ってくれるまで知らないっていうのは、
なんとかしていかないとなあ、と思います。


で、それは決して「日本文化は美しい!」っていう愛国心の話ではなくて、
多少は自分の作ったものと他の人の作ったものを同じ視点で比べることのできるような、
そういう人になろうよっていう話です。


「おめえの作るのすげえな」
から
「オレのもまあまあやると思うぜ」
へ。