いろいろ悲しい。

パンダの赤ちゃんが死んだことについて、責任というやつはあるんだろうか。
責任があるとしたら、パンダの気管が母乳を飲むところのすぐ近くにある、というパンダの体の構成にあるんであって、飼育係にはないだろう、というのが僕のおもうところであります。


生まれた時に保育器に入って、飼育を放棄したとも報道されて、それでも「やっぱりまだ子育て頑張りますよ、シンシン」って言ってた時のことだったから、ちょっと悲しいかもしれないけれど、
パンダの赤ちゃんは殺されたのではないし、見殺しにされたわけでもない。
たぶん、お餅をのどに詰まらせておじいちゃんおばあちゃんが死ぬのと同じくらいのかんじで、あの赤ちゃんは死んだ。


これで騒ぎ立てると、こんにゃくゼリーで死んじゃうから、こんにゃくゼリーは子供に与えるなっていうのとおなじことで、
母乳は気管に入って肺炎になってしまうから、母乳は与えないでください
ということになっちゃう。


なにしろ、生まれた時の瞬間だって、職員がふと目をそらしていたときに生まれたのだ。
死ぬ時も、ふと見たら胸の上でぐったりしていたのだ。なにしろ、小さいから。


「なんであんな小さな状態で生まれてくるんだ、もうちょっと育ってから生まれればいいのに、全然白黒ないじゃないか。馬みたいにすぐに立てる動物だっているんだぞ」という人もいるかもしれない。
でもそれは、なんというか、人間が生き物をもコントロールできるという思い上がりからくるものだと思う。


上野の商店街の人たちが、もしこの赤ちゃんパンダの死を理由に、「せっかくパンダ商法で儲けようと思ったのに、損失はいくらいくらだ、上野動物園は損害賠償払え」みたいになっちゃったら、と思うといてもたってもいられない。
残念だけど、赤ちゃん死んじゃったよ、葬式饅頭でも作るか、となるのが、商売人のしたたかなところだろう。
「おまけはしても値引きはしない」上野のお店のおいちゃんたちなら、わかってくれると思うのだ。


人が死ぬと、どうしてあの時助けられなかったんだろう、という気持ちになる。
その気持ちを、「管理していた」と思われる人にぶつけるのはよくあることだけれど、
それは「悲しい」という気持ちであって、それ以上のものではない。


最近、オスプレイ配備の問題も、大津の中2の子の自殺の問題も、原発の事故調の話も、なんか全部同じようなトーンで報道されているけれど、
パンダの赤ちゃんの死も、同じように報道されている。
要は、悲しんでいる人に、事件の一番近いところにいる人が、何が起こったのか説明する責任がある、という主義のもとで、報道されている。
それはそれでいいんだけど、悲しんでいる人は、どんな説明をしても「納得のいく説明をしろ」と言ってくるのだ。
タイムマシンを持ってきて、その事件の起こったあの場所に連れて行って、「こういうことでした」と実際を見せない限り、納得しない。
そんなタイムマシンはないから、できるだけ正確な「その時何が起こったのか」を言わなくちゃいけない。
けど、芥川の『藪の中』をもってくるまでもなく、その時何が起こったのかを正確に記録しているものはない。
事件の当事者だって、その時何を考えていたのか、言葉にできることは少ない。
ことばにするとこじつけのようになってしまうから、そうじゃないんだよなと思いながら、それでも言葉にしていくことを、事件の当事者は求められる。
そうして事実と真実との間にギャップができてしまう。


ビルから飛び降りようとする少女に、
「どうして飛び降りようなんて思うんだ」なんて聞いたところで何の解決もしない。
よしんば少女が理由を言って、その理由を逐一聞いて、それぞれを解決できたとしても、
きっと少女はビルから飛び降りるだろう。


パンダの赤ちゃんに、「どうして母乳を気管に入れたの?」と聞いても、
だって、しょうがないじゃない、としか言えない。


自殺にあっては、その自殺に主義主張のはっきりしたものがない限り、なぜ死んだのかは永久にわからない。
死後のショックはとても大きいけれど、ショックだけしか与えない。


自殺は、一つの命のなくなる理由が、無限の数だけ存在する死だ。


いろいろ悲しい。

大阪の「地方公務員法の政治的行為」に関する条例案と国家公務員の政治的行為について

2012年6月21日、大阪市は、地方公務員さんがやっちゃいけない「政治的行為」についての条例案、その内容を公表したんだそうです。
ちゃんと公表するっていうのは素晴らしいですね。そしてそれがニュースになるっていうのもいいことです。
いつだったか、震災復興基本法の全文がわからなくて、すごい困りましたから。


いろんなところで(といってもネット上で)話題になっているなかで、
僕自身も演劇をやる身として「へえ〜」と思うこともありましたので、ここに書いておきます。

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「当事者」について

佐々木俊尚さん(@sasakitoshinao)の『「当事者」の時代』を最後の章だけ急いで読んだ。


まずは基本と思われていた客観的な叙述やら視点ていうやつへの疑いがあるんだと思って、
けど、当事者にしか書けないものがあるのは確かだけれど、
かといって当事者に書けと命ずることはできない。
生の声がほしいのは確かだけれど、それを無理やり持ってきたら、
リテラシーのない人たちは、あるいはリテラシーでがんじがらめになっている人たちは、
「これ、本物なの?」と疑いをかけるようになってしまいやしないか。


先日『監督失格』を見て、これこそ本当に「当事者」の作ったドキュメンタリーだったと思うんだけど、
何かそういう作品に漂うナルシシズムみたいなものが、どこか受け入れにくさを作ってるように思う。
このナルシシズムをかつての(今もあるんだろうけれど)メディアはなるべく無くそう無くそうとしてきたんじゃなかったのか。
報道は小説ではないし、きっとドキュメンタリー作品とも違う。
ジャーナリズムがいかなるものか僕はよく知らないけれど、アナウンサーの「感情をこめずに正確にはっきりと言葉を伝えること」という原則は
「誰かの側に立っているわけではない」という宣言のように思える。


もし、とある文章で、とある単語に感情を入れようものなら、途端にニュースはどこかのグループに属してしまうだろう。
メディアというものは、きっとそういうものだったんじゃないか。
いったいいつから報道がどこかに属してしまうようになったのかはよく知らないけれど、
プロパガンダが成立するためにはまず「メディアはどこにも属していないはずだ」という前提がないといけない。
どこにも属していないはずのメディアが報じるからこそ、信憑性は増すというものだっただろう。


社説やニュースキャスターのコメントがニュースになってはいけないんじゃないかと思った。


たぶん日本ではそれをやり始めたのは(主流にさせたのは)ニュースステーションだったのだと思う。
「視聴者と同じ目線でニュースをお送りする」という宣言はどこか空しい。
できることなら視聴者の知らなかったことをどんどんと提示していくニュースがありがたいと、僕は思う。
問題はそのニュースのソースがいったいどこから来たのか、という点だけど。


ニュースの原稿がもし「当事者」が書いたものであったなら、きっとはじかれていただろう。
少なくとも「事件の当事者によると」と前置きがあってからその原稿は読まれることだろう。
当事者の書いた文章は心を揺さぶるから良いなんて、言うのはいけない。
人の心を揺さぶろうなんて、考えちゃあいけない。
そうじゃなくて、目の前にあった事件に「わたし」の心が揺さぶられるんだから。
人の心は勝手に揺さぶられるのだから、他人が揺さぶろうなんておこがましいのだ。
佐々木さんが「当事者になることはめったにできない」と最後の章で注意喚起しているのはとても重要だ。
当事者になることは大変に苦痛を伴うし、苦労ばっかりで、表現ができない状態が続くことの方がおおい。
それでも表現しようとしてひねり出した言葉だからこそ胸を打つのであっていくら当事者だからといって、
やった当事者になれた!ようやくこれ書けるぜ!と歓喜して表現をして、そうして心を打つ表現をなす人間は、
よほどの天才か変態か芥川の「地獄変」の主人公ぐらいのものだと思う。
大体の人は「当事者」になれた喜びを感じてる時点で「当事者」じゃない。

 「臨界幻想2011」を見てきた。

青年劇場106回公演「臨界幻想2011」
紀伊国屋サザンシアター
byふじたあさや

キンダイシュラン《★★★★☆》

ちゃんとしたものは、ちゃんとしている。
ツイートしたものをまとめておきます。

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飛行機を見て、どれだけ驚くだろう。

友達の手伝いをしている。
その稽古の終わった後、ラーメン屋に行ってしばらく話した。
面白い話だったと思ったので(といっても、大体僕が話していたのだけど)
そこで話したことをここにまとめておこうと思った。
まだ全然まとまっていないのだけど、書いておきます。


飛行機の飛ぶところを知らない人に、それが飛ぶことを知らせるために、飛行機は鳥の形をしているんじゃないか?
飛行機が飛ぶなんて信じられない人に、少なくともそれが飛ぶんじゃないかなと思わせるために、少なくとも空を飛ぶ鳥に似せた形をもってこなければならない。
エイの形をした最新鋭のステルス戦闘機をいきなり見せても、きっとそれが飛行機だとは思わないだろう。
鳥が飛ぶことへの感動を覚えておかないと、飛行機が飛んだ時の感動もきっとわからないだろう。


僕らの体には、すこしずつ、「カタ」が埋め込まれていっている。
鳥は飛ぶものだ、という「カタ」があって、その鳥の形に飛びそうな感じを持っている。
飛行機は、鳥の形をしていなくてもいいはずなのに、翼を持っている。
それは翼が空を飛ぶために必要だからじゃなくて、空を飛んでいる鳥が翼をもっているからだ。
「ルール」や「約束事」や「カタ」というものは
一つの芝居について、はじめから、ゼロから、作らねばならない。
「ルール」や「約束事」や「カタ」が始めからわかっている状態で上演されているものを、僕は「馴れ合い」と呼ぼう。


僕らの作ろうとする芝居の面白さは、「馴れ合い」にはない。
それよりも、芝居の発生するところから一緒に「ルール」や「約束事」や「カタ」を作っていく作業とをしていくこと、その作業に面白さはあると思うのだ。
笑える瞬間というのは、一緒に作り上げていった「ルール」や「約束事」や「カタ」を超越する瞬間なのだ。
ああ、その抜け道があったか!というような快感とともに、笑いはやってくる。


そう思う。

『杉本文楽 木偶坊入情 曽根崎心中 付観音廻り』 を見てきた。

大変に長い文章です。
が、僕の文楽に対する考え方も書いたので、長いのはそのせいです。
何しろ、今回の公演は、もったいなくて仕方なかったのです。



『杉本文楽 木偶坊入情 曽根崎心中 付観音廻り』 

by近松門左衛門

演出:杉本博司

キンダイシュラン≪★★☆☆☆≫

人によっては≪★★★★☆≫


杉本文楽見てきた。
企画はとてもいいと思う。
文楽を現代の大きな劇場でやること。
地震で中止になってしまって、それを復活できたこと
観音廻りの復活。
簑助の徳兵衛と
勘十郎のお初。
鶴澤清治の作曲と、天満屋の段。
美術に杉本博司
安定感のある太夫さんたち。

ただ、演出と振付は他の人がするべきだったのではないかと、悔やまれてならない。

あるいは、僕の長年鬱積した曽根崎心中に対する偏愛が、杉本文楽への批判につながっているかもしれない

僕はこれから、よかったと思うところ、こうしたらよかったんじゃないかと思うところ、どうしてああしたのか全然わからないところ、

いろいろ書いていきます。

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